【星に願いを。河に穢れを。】
季節は春も過ぎ、これから梅雨へと気候が変わり始める頃。 僕、森近霖之助は、いつものように平穏な日々を重ねている。 「厄取りサービスに来ました」 香霖堂にとって、割と珍しい類の客が訪れた。いや、神様が買い物してはいけないとか、俗っぽいふるまいだとは思わないけど。 そもそも彼女は付喪神であって、どちらかというと妖怪に近い存在である。 鍵山雛。 彼女は妖怪の山近くに流れる川の下流に居る事が多いらしいが、そこは外の世界から流れてくる物も幾つかあるらしい。 その多くは、流し雛と呼ばれる、一種の呪術道具である。 人々に蓄積された穢れや厄を紙で模った人形につけ、それらを神代の国へと流す風習、それが雛流しである。 最も、流されるのは紙のヒトガタだけではなく、人形やお守り、その他人間が不要になった物も多く含まれている。 産業廃棄物になるという指摘から、最近は外の世界からも流れてくる事は少なくなってきたらしい。 それでも、毎年流し雛はどこからともなく幻想郷に流れつき、それらは彼女の糧になる。 彼女は付喪神であり、流し雛の長でもあり、流れ着いた流し雛の厄をその周りに留め、再び人間に流れないように見張っている。 それが僕の知る彼女――鍵山雛の全てだ。 「いや、そういう類のものは間に合っているが」 「あら? ここにある厄は、微々たるものだけど集めれば結構な量になるわ。それこそ人間を殺せるくらいには」 物騒な喩に、僕は少し辟易する。「生き物や道具は少しぐらい穢れがあるくらいでいいんだ。無菌で育てられたラットは病弱だというからな」 外の世界の知識の受け売りを述べた僕に、彼女は小首を傾げた。「遠慮しなくても宜しいのに。丁度今は流し終わった後で少食気味なの」 確か、彼女は流し雛が再び人間の元に流れないように監視をしているらしい。「良かったら、あなたの厄を全て引き受けましょうか?」 「だから、間に合っている」 「そう。残念ね。でも、祓いは別に私だけが出来る行為では無いもの」 その口ぶりだと、彼女が全ての厄をその身にため込んでいる訳では無いようだ。大祓いは神事としては有名な方だから、雛流しが人間の穢れや厄を払う唯一の方法では無い事ぐらい、少し考えれば解る筈だったが。 穢れや厄は、溜まり過ぎれば毒になり、様々な病気や不幸に見舞われてしまう。 そう考えると、彼女の存在は一応は心強いとも言える。 「もしもの時は頼むよ。あー、あと、駄々漏れの厄が店の商品に付くのだけは勘弁してくれ」 「いえ、そんな事は絶対にありませんから、安心して下さい。そんな事が起きれば、私の価値なんて無いわ」 彼女は口の端を釣り上げて、不吉そうな印象の笑みを浮かべた。いや、不気味と言えばいいのだろうか、とにかく見る者を不安にさせる何かが、彼女の笑みにはある。 「それを聞いて安心したよ。それで、気まぐれで僕の店に来た訳ではないだろう?」 以前は偶然、僕の店に立ち寄ったらしいが、去り際の彼女の言葉がまだ活きているなら、彼女は何かしら理由を以て香霖堂を訪れた事になる。「理由のひとつはあなたの顔が見たかったから」 きっぱりと言い放った彼女に、僕は面食らう「残りは、相談したい事があるから。聞いて下さる?」 断る理由は無いのだが、どうも僕はこういった厄介事が多い気がする。トラブルの無い穏やかな毎日を望んでいる筈が、現実は皮肉な物である。 だが、それが全て僕にとって害では無い。 時には新たな商売の糸口にもなり、解決出来れば報酬を期待できる。 そんな訳で僕は、出来る限り香霖堂店主として、相談に乗っているという訳だ。 無言で肯く僕に、彼女は据わりの悪い笑みを浮かべた。 「流し雛の相手をしているだけでは、ここに住まう皆の厄を取れていないと思ったの。それは私が積極的にしていないからだと思って」 「先程の厄取りサービス、なるものか?」 「ええ。 厄神様という周囲の認識は、彼女から他者を遠ざけるだけの効果はあるのだろう。 面と向かって彼女に『お前に近づくと不幸になる』と拒絶した者も居るかもしれない。 「そこまで気に病む事は無いんじゃないか。厄が再び人間たちに流れないように監視しているだけでも、充分人間の為になっている」 「それだけでは足りないの。それに今の時期、やる事も無くて暇で」 「大いに結構な事じゃないか。出来た休暇は有意義に使えばいい」 僕の軽口に、彼女は真剣そうに眉を寄せて答える。「有意義に過ごすのなら、私は人々の厄を受け止めていたいわ」 ああ、どこまでも真摯な姿勢だ。彼女のまっすぐな瞳の色に気押され、僕はどうしても彼女の境遇を考えずには居られない。 人間たちの為に穢れを引き受け、不吉だと冷遇されても、そうさせた相手を想う。 たとえ報われる事が無くても、厄神と呼ばれる彼女は人間たちの厄を貯め込み続ける。 厄神としての彼女の運命は、あまりに暗く、そして悲しい。 だが、決して僕は、その境遇に同情した訳ではない。 「君のその勤勉さは、僕も見習った方がいいかな」 「あなたはしっかりと仕事をしていると思うわ。離れる事も無く、いつ来るかわからない誰かの為に、誰が必要なのか解らない物を管理し、待ち続けるなんて事、普通は出来るものじゃないもの」 そりゃどうも、と僕はどことなく沸いた気恥ずかしさを誤魔化す。「行動し続ける事が僕やその誰かの為にならない事を知っているからね。客を呼び込んだり、押し売りをするのも、商売としては一つの方法だが、僕の性には合わない」 「それだけが理由じゃないの?」 普通なら呆れる所だが、彼女は真面目に僕の言葉に耳を傾けている。こういった知り合いは、大事にしたい所だ。 ……いや、僕の話が決して長くて退屈だから、という訳ではないが。 全く、僕は誰に弁解しているんだろうか。 「僕の扱う物は、それこそ価値が解らない物だってある。だけど、それはあくまで僕の主観であって、これらを必要とする誰かの存在を否定できない。誰が見てもガラクタにしか見えない物は、ただ一人の為だけに宝物にも成りうる。その価値を決めるのは、僕では無い。そして僕は、一人でも多くその大事な物が必要な相手に渡る事を願っている」 少し恰好を付け過ぎな気がするが、真摯な言葉というのはどこか安っぽく聞こえるのかもしれない。彼女の前では、本音を気兼ねなく言えてしまいそうな錯覚にも陥る。 「誰かの手にこれらが渡るのは、今日かもしれないし十年後かもしれないし百年後かもしれない。その時の為に、香霖堂はここにあり続けなければいけないかもしれないな」 十人中九人は話半分に聞くであろう僕の詭弁。「そうね。きっとそれは、あなたにしか出来ない事なのでしょう」 いやはや。彼女は僕の戯言を真正面から受けとめてくれたようだ。本当に、彼女のような知り合いは大切にしなければならない。 うるんだ瞳を閉じて、彼女は胸の辺りで両手を重ねた。 まるで祈るようなその姿勢は、神秘的で、おもわず見とれそうになる。 人の幸せの為に穢れや厄を自ら取り入れる彼女は、人々の祈りを体現しているかのようである。 「――時には待つ事も大切なだと、あなたは教えてくれた」 「教えたなんてとんでもない。僕はただ自分の考えを述べただけで、どう捉えるかは君次第だよ」 「でも、私の場合、それじゃあ今までと変わらない。 「ただ君が向かうのではなく、人が集まる時を狙って行動を起こしてみればいいんじゃないか?」 「人間が集まる時期?」 「そうだな。例えば、縁日や祭りの日は、人が特定の場所に集まる。他には露店が多く並ぶ中有の道もいいかもしれない」 「なるほど。――待つとは、時期を選ぶと同義であるのね」 得心した様子の彼女は、どうやら懸念していた問題を解決出来たようだ。「今度人里で開催されるのは……近い節句だと七夕かな」 「七夕? それはどんな事をするのかしら」 「別たれた夫婦が年に一度会う事が許された日、そんな言い伝えが有名だが、実際には雨乞い、虫送りなど、季節の節目に行われる大祓の一種だ。五節句の一つに数えられるから、雛祭りのようなものだと思ってくれればいい」 「ああ、雛祭りなら知ってるわ。飾った人形に穢れや厄を擦りつけて、子供の健康を祝うのよね。この時期は流し雛が流れ着く事が多いの」 「それと七夕もあまり違いは無いんだ。ただ、笹を飾り、願い事を書いた短冊を付けるという風習がある」 「願い事」 そういえば、彼女と初めて話した話題というのが、願い事についてだったな。思い出すと長くなる為、とりあえずは割愛しよう。 「そういえば、昔は笹が流れてきた事もあった気がするわ。あれが七夕なのね」 「端午の節句は過ぎてしまったから、次に君が厄払いで活躍出来るのは、その時が適切だと僕は思うね」 もっとも、今彼女が行動を起こしても、六日の菖蒲、十日の菊である事は想像に難くない。縁起を大事に考えるのは、僕にも人間の心が半分あるからだろう。 「――うん。ではあなたの言う通り、その七夕の日に何かをしてみるわ」 しばらく考え込んだ様子の後、彼女は決心を固めたようだ。「やはり、ここに来たのは間違いでは無かった。ありがとう、霖之助」 笑みを見せた彼女の表情は、やはり僕にどこか薄気味悪さを感じさせる。それでも、その笑みの中に、ほんの少しだけ、優しさが含まれていたのは、僕の気のせいだったのだろうか。 幻想郷は、外の世界と微妙に日付が異なるらしい。 だからといって季節の移り変わりに違いは無いだろう。 蝉の鳴き声を背景に、僕は香霖堂を出て、人里へと向かった。 いつもは人里の年中行事などに興味も無く、無関係に過ごす僕ではあるが、今年は少しだけ事情が違っていた。 人里はその日、七夕祭りという色に彩られていた。 民家の屋根には笹が飾られ、それらに付いた短冊の数はざっと見ても百はくだらないだろう。 その中でも、特に人里の中心に位置する広場には、大きな笹筒が飾られ、会場として賑わっていた。 ちらほら人外の者が見えるのも、人里の騒々しさに一役買っていた。 今日という日の為に、幻想郷の各地で飾られていた笹飾りが一か所に集まる訳だから、自然と短冊を飾った妖怪たちの足がここに運ぶのも想像に難くない。 かくいう僕も、知り合いに頼まれて香霖堂にしばらく飾っていた笹飾りを渡す為に、わざわざここまで来た訳だ。 「しかし……本当に賑やかな物だな」 狭い幻想郷、どこにここまで隠れていたんだと言うぐらい、通りの左右には露店が並び、道行く人や妖怪でごった返していた。元々人ごみで騒ぐのは趣味じゃない僕も、遠巻きにその往来を眺めて楽しむ程度の余裕はある。 ぶらぶらと、目的も無く歩き、時に出会う知り合いの多さに少しうんざりして、僕は大通りを通じて人里を出る事にする。 このまま帰れれば良かったものの、僕は人の通りも疎らになった里の出入り口の光景に目が止まった。 目を凝らさなくても解るぐらい、不吉な感じのする淀んだ空気。 それが何故か道の脇の一か所に、留まり続けていれば不自然だと誰もが感じるだろう。 誰もが一秒でも居たくない、そう僕に思わせる異様さがあった。 ただ、範囲は狭く、その空間の中心にいる彼女に触れる程の距離ほどしかない。 普段の僕なら、訝しげに彼女の傍を避けて通ってやり過ごしていただろう。 そうさせなかったのは、以前の香霖堂での出来事を僕が思い出したからだった。 正確に言うと、その出来事と、今の彼女の行動を僕が関連付けてしまったためだが。 「……何をしているんだい?」 どこから用意したかは知らないが彼女は茣蓙の上にちょこんと座り、僕の声に反応して顔を上げた。「あら、霖之助。お久しぶりね」 そう言って、彼女――鍵山雛はいつものように不吉な印象の笑みを浮かべた。「何って、この間のあなたの助言を聞いて、こうやって人間の厄を取ろうとしているの」 「ただ君がここに居るだけで、通行した人間たちの厄は祓えるのかい?」 「いえ。普通は触れないと祓う事は出来ませんわ。でも何故かしら。人がたくさん集まると聞いたけれど、ちっとも集まらない……どうしてかしら?」 心から不思議そうに、彼女は首を傾げた。僕はため息を隠さず、片手で頭を押える。 「原因は色々とある。まず第一に人が集まるのは人里の中心だ。出入り口にたむろするのは余程の物好きか逢い引きくらいだろう。それに、君はここで座って待っているようだが、他の者からは君の行動の意味が解らないでいる。つまりは好意に対する説明不足だ。そして、遠目に見ても不吉そうな場所に、わざわざ近づく事は無いだろう?」 ひとつひとつ僕の言葉を理解するように肯いて、彼女は顔を伏せてしまった。「そうね……なら説明して回った方がいいのかしら?」 「いや、多分あまり効果は無いだろう。一応聞くが、君はその厄取りサービスなるものを無償で行うのかい?」 「ええ。対価を求める意味は無いもの」 裏表も無く、はっきりとした口調で彼女は答えた。「普通は有益になる事を見返り無しで行えるのなら、誰もがそれを望むだろう。だが、君には人間からの信頼が無い」 「信頼が無いと、どう影響するのかしら?」 彼女はどうも、人間として獲得する感情に関しては疎い傾向がある。まぁ、普段それらに接しないから、仕方無いと僕が諦めるだけの余裕はある。 「うまい話には、必ず裏がある、と良く言うね。自分にとって得になり、対価が不要な条件に対し、その条件そのものが偽であると疑ってしまう。君が今自分のサービスについて説明しても、多くの者は何か魂胆があるんじゃないかと考えるだろう」 「そんなつもりは全然無いけれど、向こうからそう思われては仕方無いわね――私には周囲に貯め込んだ厄があるから、人が近づくと不幸になってしまう」 彼女の言う事が事実なら、僕もそれなりに影響は受けそうなものだが、今は気にしないでおこう。何と、言えばいいのだろうか。 それを差し置いてまでも、人々の為になろうとする彼女のひたむきさに、感服したからだろうか。 それとも、僕は彼女に同情しているだけなのだろうか? 思考を手繰り寄せても、僕は明確な答えは出てこない。 何故、僕はわざわざ苦労をしてまで、彼女の話を聞いて、何をしようとしているのだろう。 ふと、彼女の姿が目に映る。 正座のように座り、スカートの上に握った手を載せ、まっすぐな表情は僕を捉えて離さない。 「……まぁ、方法が無いわけでもない」 そう言いながら、お節介な自分を嘲笑ってみる。まぁ、このまま話を聞いただけで帰っては、夢見が悪い。 今はとりあえず、そういう事にしておこう。 「本当に? 私はどうすればいいのかしら?」 お伽話の続きをせがむ子供のように、彼女の瞳は期待に満ちていた。その無意識に出たであろう表情は、微笑ましいものがあった。 「君のやる事は変わらない。ただ、厄祓いの対象は人では無く着物などにとどめた方がいいな」 彼女の行動は変わる事は無い。変わるとしたら、それは僕の方だ。 「ま、一刻程時間をもらえないか?」 知り合いというのは多いほど助けになる。 僕は人里の、ある商店の主人から大八車を借り受け、人の往来の激しい通りに陣取った。 しかし、こういう事をするのは何時ぶりだろうか。 霧雨道具店での修業時代を思い出し、初めは随分と慣れるのに手間取ったものだ。 だが、手に残る実感は、これからの行動に何ら不安を感じさせなかった。 普段は縁が無い、大きな声量を放つ為に、僕は息を吸い込む。 「さぁさぁお立ち合い。ご用とお急ぎの無い方はゆっくりと見ておいで聞いておいで。ここに座す方こそは、皆の穢れに病に不幸あれど、全て引き受けん厄神さま。隠れござらぬ貴賎群衆の、花の幻想郷花の人里、 産子・這う子に至るまで、 御評判、御存じないとは申されまい――」 僕の口上に、徐々に通行人が足を止めて、奇異の視線を向けてくる。傍に置いてある大八車の少し後方で、鍵山雛は手を前に組み、僅かにほほ笑んで立っている。 その目に留まる異様さは、僕の言葉で興味に変えれば良いだけの事だ。 あらかじめ考えておいた口上はこういった内容だ。 本来、大祓い等の神事に参加し、厄と穢れは祓われるが、その家の道具に付いた厄などは祓われてはいない。 残った穢れをそのままにしておけば、そのうち不幸に見舞われるだろう。 次の神事に参加する際に持っていけばいいだろうが、次の大祓までしばらくは時間がかかる。 だけど今ならすぐに、厄や穢れを祓う事が出来る。 しかも今日はめでたい七夕。それを全て無料で行おう、といった内容を繰り返し僕は説明する。 「されど大祓い、行きそびれても安心、衣服をちょっと預けてもらえば、たちまち穢れは払われる! さぁさぁ、お立ち合い――」 ある一人が物見有山に衣服を僕に預けると、堰を切ったように見物人が僕の元に押し寄せてきた。人間らしい行動に今は少しだけ感謝し、僕は客の対応に追われる事となる。 まぁ、これで商売は成り立たないから、客というのは語弊があるかもしれない。 彼女はそんな人だかりと一歩距離を置いて、遠巻きに笑みで応えていた。 祭りの中の独特の空気感も手伝ってか、その後も客は続き、厄神様の厄取りサービスは大盛況に終わった。 無許可営業という事で、僕は知り合いから色々と注意を受けてしまった。 ただ、注意を受けたのはその点だけで、他にはお咎めも無く、僕は大八車を返し、少々の疲労を感じ薄く息を吐いた。 「まぁ、成果は上々だったね」 「ええ。本当に。たくさんの厄を受け取れて私も幸せだわ」 その台詞は彼女以外には似合わないだろう、と僕は内心苦笑する。鍵山雛は、昂揚しているかのように、ほんの少し頬を朱に染めていた。 「これで君の知名度は、人里ではそれなりにはなった事だろう。そのうち、厄払いの依頼を受けるようになるかもな」 たった一刻半程度で、誰もが彼女の事を知るようになった訳ではないけれど、少しでも彼女の存在が認知されれば、僕の行動も無味ではなくなる。その後の進展は、彼女や、人里の人間次第だろう。 「霖之助」 「ん?」 「今日は本当にありがとう」 「ああ」 面と向かって礼を言われ、僕は上手く答えられず、生返事で返した。僕自身、ここまで成功するとは思わなかったが、それも今日という日だからこそ、なのだろう。 七夕の言葉は、一説には棚機という古い禊ぎの習慣から来ているから、着物を神様の前に差し出す行為自体に、違和感は無い。 そういう昔からの風習が少しでも残っているから、人間に受け入れられた。……それは僕の考え過ぎだろうか。 宵も深まり、空には星明かりが幻想郷の地を照らしている。 祭りもいよいよハイライト、といったところか。 「ねぇ、霖之助」 「ん?」 「今日は皆の願いが叶う日なのよね?」 「ああ、そうだな。元々は織姫星の伝説にあやかって機織りの技術向上を願った物だったが、時と共に願い事なら何でもいいように変化していった。効果はともかく、現在ではそういう認識の上に七夕信仰は成り立っている」 「その願い事というのは、私が願ってもいいのかしら」 ふと見た彼女の表情は、真剣そのもので、僕はつい苦笑してしまった。僕の反応に、鍵山雛は不服そうに眉を寄せている。 「笑わなくてもいいじゃない」 「ああ、悪かった。別に他意は無いんだ――君の願い事か。多分いいんじゃないかな。現に今年は妖怪の書いた短冊も飾られているぐらいだから」 特に反応を返す事も無く、しばらく彼女は黙り込んでしまった。考え事をしているのだろう、邪魔をしては悪い、と同時に、僕が彼女と一緒にいる理由が無い事に今更気付く。 「それじゃ、僕はそろそろ帰る事にするよ」 次に彼女に会えるのはいつ頃になるのだろう。少なくともすぐにまた会うような事は無いか、とそんな些細な事を考える。 「あ……待って」 辺りを憚るように小さな声で、彼女は僕を呼びとめた。振り返り、彼女が今までに見た事の無いような表情を覗かせている。 それは、遠慮、それとも躊躇、なのか。 どこか不安そうに、だけどまっすぐに彼女は僕を見つめている。 両手を胸元に置き、彼女は慌てたように声を出す。 「私と……一緒に来てほしい所があるの」 真剣な彼女の様子に、気付けば僕は無言で首肯していた。その反応を見た彼女の表情は、安堵にも似た色を浮かべていた。 彼女の指定した場所は、人里からそれなりに歩いた所にあった。 妖怪の山の近く、傍に流れる河のほとり。 そこは僕が聞いた彼女が普段居る所であり、あまり立ち寄った事は無い場所だった。 狭い幻想郷、だからといって僕は幻想郷の全てを見て回った訳ではない。 僕はまだ、この地に未開の場所がある事を実感を伴って理解した。 「ここでいいわ。立っていないで座ったらどう?」 辺りを目を凝らしている事に夢中になってか、彼女は僕に座るように促した。素直に僕は、彼女から半歩離れた位置に腰を下ろした。 これ以上近づけば、彼女から何かしら言われるであろう、ぎりぎりの距離。 その距離感が、お互いの関係をよく表していた……というのは、僕の穿った考えなのだろう。 夜の川辺は、静寂と闇に包まれ、あの人里の喧騒が夢であったかのようだ。 僕は川のせせらぎに耳を澄ませ、時折彼女の横顔を見る。 彼女は遠くを見つめるような、憂いを秘めた表情で、目の前の景色を眺めている。 その横顔を、綺麗だと僕は思う。 互いに言葉を交さない時間は、安らぎとほんの少しの居心地の悪さをない交ぜにして、緩やかに過ぎていく。 先に口を開いたのは、彼女の方だった。 「今日ははしゃぎ過ぎたかもしれないわ。あんなに沢山の人を見たのは初めて」 一人ごとのようなそれに、僕は答える。「そうか。確かに楽しんでいたようだったな」 「ええ。やはりあそこは、私が簡単に立ち寄るべき場所では無いかもしれないわ」 そうか、とだけ僕は答える。それが彼女の答えなら、僕は何も言うまい。 すぐ後に、遠くから大砲のような発射音が耳に届いた。 そして、空に浮かんだ光の花。 人里の近くから発射された花火だと気付くのに、さほど時間は要さなかった 「花火か。……今年は本当に派手だな」 幾つも続いていく大輪の花は、一瞬だけ闇に咲き、後は僅かに燃えカスが落ち、消えていく。「綺麗ね」 彼女はぽつりと呟く。その目は、遠く、慈しむように、どこか名残惜しそうに。 きっと、彼女はこれからも、人里の人間たちをこのような眼差しで見守っていくのだろう。 それもまたいい。 僕と鍵山雛は、夜空の花火を眺めて、それなりに楽しんだ。 「霖之助」 花火も終わり、しばらくしてから彼女は僕の名を呼ぶ。「ん? どうした?」 「今日は色々私を助けてくれた。この間の相談もだけど。だから、私はお礼をしたいの」 彼女はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。「ここは人間どころか、妖怪も立ち入らない不吉な場所。だから、らしいわ。霖之助、顔を上げて」 彼女は空を見上げるように顔を上げる。それにならって見上げた夜空に――僕は息を呑んだ。 夜空に瞬く星々の光。 天の川と呼ばれる星々に、この時期に浮かぶ二つの星。 それらは、僕の記憶にある、どの夜空より澄んでいて、綺麗だった。 「昔ここを訪れた誰かが言ってたわ『ここは幻想郷で最も夜空が綺麗に見える場所だ』と。それは、生物の息づかいが感じられないかららしいけれど、詳しい事は解らない。でも、あなたの顔を見れば、喜んでいる事だけは解るわ」 「ああ、確かに、これは素晴らしいものかもしれないな」 この年になってまで、ただ空を見上げるだけでここまで感動するとは思わなかった。まるで、空に瞬く星に手が届くようで、手を伸ばしたくなるような。その光たちは僕を魅了させる。 「所で、織姫星と彦星って、どれなのか教えて下さる?」 「ああ、あそこだ。織姫星はこと座のベガ、彦星はわし座のアルタイルで――」 しばらくの天体観測に、僕と鍵山雛は子供のように夢中になっていた。 今日は七夕。きっとどこかで、誰かも同じように空を見上げているのだろう。 「しかし、お礼という事だが、僕には君に頼みごとがあったんだが」 「あら、何かしら?」 「本当はそれでフェアにしようと思ったのだけどね」 そういっておどける僕に、彼女は浮かんだ笑みを手で小さく隠す。あまりに自然なその様子に、僕は気付く。 彼女の不吉な印象を残す笑み。あれは彼女の感情が見えない、作り物めいたものだったからではないか。 丁度人形の顔をゆがめて、無理やりに作られた笑みのようで。 だが、今浮かべる彼女の笑顔は、確かに感情が乗せられていた。 「どうしたの?」 「ああ、何でも無い」 思わず見とれてしまって、なんて気障な台詞など言えそうにはない。「それで、頼みごとだが、香霖堂までの道案内をお願いしたい」 一瞬、きょとんとした無防備な表情。「この時間に一人で出歩くのは物騒だし、何より僕はここからの帰り路を知らないからね」 「あ。ああ、成程。確かにそうね」 理解をした彼女は肯いて、スカートの裾をつまみ恭しく礼をした。「では不肖鍵山雛、護衛と道案内を承ります」 その仰々しさは、彼女なりの冗談なのだろう。そういった些細な事を理解できる関係は、僕にとって少しだけ嬉しい。 手を取り合う事は出来なくとも。 お互いに並んで歩く事が出来なくとも。 とても身近にお互いの存在を感じ合うように、僕たちは香霖堂への歩みを始めた。 ――彼女の願いは、どうやら叶ったらしい。 2010/7/7:掲載 |
◆著者コメント◆ どうも、あとがきです。 ◆管理人コメント◆ 雛可愛いよ雛(笑 |