【温泉騒動記】










「やれやれ……やっと着いた」

 白い雪に彩られた博麗神社。
 香霖堂と大差無いくらい閑散としたそこを、珍しく僕は訪れていた。
 大した理由は無い。
 唯、近くに寄ったから顔を出してみようと思っただけだ……後、最近出来たと言う温泉に興味があったくらいか。

「……それにしても、静かだな」

 人が居ないのは……まぁ、宴会の時を除けばいつもの事だ。
 しかし、家主である霊夢まで居ないのは珍しい。
 どこかに出かけているのだろうか?
 冬でも変わらず、見ている方が寒くなりそうな格好でご苦労な事だ。

「仕方ない。今日は出直すか」

 折角だから温泉に入ってみたかったが、霊夢が居ないのなら仕方が無い。
 客寄せの為に作った、と言っていたし、そもそも彼女にはたっぷりとツケがあるのだから、勝手に入っても問題無い気もしたが。
 しかし、踵を返そうとした時だった。


 ――にゃーん。


 高く透き通るような猫の声が響いた。
 思わず振り返ると、賽銭箱に乗っかるように一匹の黒猫が居た。
 何時の間に、とも思ったがそれより気になったのは、その猫の尻尾だった。

「尻尾が二本……猫又か?」

 一瞬八雲紫の式の式かと思ったが、何となく違う気がする。
 もしそれが橙であれば、近くに藍或いは大量の野良猫達が居る筈だからだ。
 どちらにしろ、普通の猫ではないだろう。

「うにゃー?」

 等々と考えている内に、黒猫は僕の足元に来ていた。
 『どうしたの?』と言わんばかりに首を傾げ、その紅い瞳で見上げてくる。
 この猫が唯の猫でない事は明らかだったが、気付けば僕は屈みこんでその頭を撫でていた。

「にゃ〜……」

 僕の手が気持ちいいのか、どこかうっとりとした声を出す。
 どうやらしっかり毛繕いされているらしく、僕もまた気持ちが良かった。

「…………」

 なんだろうか、この気持ちは。
 嬉しそうにふよふよと揺れる尻尾を見ているとなんだか…………凄く触ってみたい。

「にゃ?」

 一度その欲望が目覚めたら、抗う事は不可能だった。
 頭を撫でるのを止め、右手は吸い込まれるように尻尾の方に向かう。
 そして――


 ――あにゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!?


 次の瞬間、黒猫の甲高い悲鳴が辺りに響いた。
 が、僕はそんな事お構い無しに尻尾の感触を楽しむ。

「ふむ、やはりこの触感は良いな。猫と言えば肉球と言う連中も多いが、僕は断然尻尾派だ」

「あにゃ! にゃ!?」

 黒猫の方はと言うと、突然の事に混乱しているのか僕の成すがままだ。
 それ故に、僕は尻尾の感触を思う存分堪能できるのだが。
 しかし何故だろう?
 こうしていると、何故か酷い背徳感に襲われるのは。
 まるで幼い少女を無理矢理犯しているような感覚に陥る――僕にそんな趣味は無いぞ、念の為。

「にゃ……ふにゃ……」

 黒猫の鳴き声が段々、嬌声染みてきたのもそれに拍車を掛けていた。
 これはいい加減止した方が良いか――そう思い始めた時だった。


「お燐を離せえぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


「げふっ!?」

 突如背中に衝撃が走り、僕の意識は一瞬にして闇に堕ちた。




* * *





 夢現の中で僕が感じたのは、背中にズキズキと走る痛みと、後頭部を包むようにして広がる柔らかさだった。
 背中の痛みはまだ良い、だが後頭部の感触は何だ?
 柔らかいだけでなく仄かに温かく……まるで人肌のようだ。
 未だぼんやりとした頭は幾ら考えても答えが出ず、逆にその感触をもっと堪能したかった。

「んん……」

「ち、ちょっと……ふふ、くすぐったいってば!」

「!!?」

 しかし、突如頭上から響く少女の声。
 それによって僕の意識は一瞬で覚醒した。

「…………なっ!?」

「あ、起きた?」

 眼を開いた瞬間飛び込んできたのは、視界一杯を埋めつくす逆様の少女の顔。
 くすぐったそうに細められた紅い瞳はどこかで見たような気もするが、寝起きと混乱でゴチャゴチャな頭ではそれがどこでなのかは解らなかった。
 しかし、今考えるべきはそれではない。

「あー……えっと、此処は――」

「起きたんならさっさとお燐から離れなさいよ!」

「うおッ!?」

 優先すべきは状況の把握――そう考え口を開くも、今度は脇腹の辺りに衝撃が走った。
 一瞬眼の間の少女にやられたのかと思ったが、今のは明らかに別の人物の声だ。

「いつつ……」

 脇腹を押さえつつ起き上がると、僕の予想通り二人の少女が居た。

「あちゃー……おにーさん、大丈夫?」

「お燐! そんな奴ほっときなさいよ!」

 方や僕を心配する赤毛に猫耳、そして紅い瞳の少女――さっきの子だな。
 もう一方は敵意を隠そうともせず僕を睨む、黒い長髪に大きな翼を背に持った少女だ。
 全く正反対な対応を見せる二人の少女に、僕は内心で溜息を吐き……赤毛の少女の方に視線を向けた。

「とりあえず、状況は把握したいのだが……君達は?」

「ん? あたいは――」

「そういうのは自分から言うもんじゃないの?」

「……む」

 話のしやすそうな方に声を掛けたのだが、黒髪の子が割って入ってきた。

「こら、おくう!」

 そんな彼女に赤い方は眉を吊り上げるが、僕はそれを手で押さえる。

「あぁ、気にしなくてもいいよ。その子の言う事は尤もだしね。……僕は森近霖之助。魔法の森の入り口で香霖堂という店を営んでいる」

「あたいは火焔猫燐、お燐と呼んで頂戴! で、こっちは霊烏路空。なんか機嫌悪いみたいだけど、悪い子じゃないんだよ?」

「つーん!」

 空、と呼ばれた子は口を尖らせて明後日の方を向いている。
 やれやれ、理由は解らないが相当嫌われているらしいな。

「……それで燐、此処は何処――」

「お燐」

「は?」

「さっき言ったでしょ? あたいの事は『お燐』と呼んで頂戴、って」

「いや、しかし……」

「いいから、ほら!」

 高が呼び方でそこまで気にしなくても――そう思ったが、彼女の笑顔からは何故か逆らい難い威圧感が出ていた。
 内心で諦めの息を吐き、僕は彼女の言うとおりにする事にした。

「…………お燐」

「ん! 良し! この子はおくう、って呼んであげてね」

「……あぁ。で、話を戻して良いかい?」

「ん? あぁ、悪いねぇ。……此処が何処か、だっけ? 博麗神社だよ、おにーさん覚えてないの?」

「…………あぁ、そう言えばそうだったな」

 言われて辺りを見てみれば、確かにそこは博麗神社の居間だった。
 普段は霊夢の方が僕のところに来るから、言われるまで気付かなかった。

「それじゃあ、僕はどうして寝てたんだい? 神社に来たところまでは覚えているんだが……」

 次に一番気になっていたそれを訊ねる。
 しかし、僕の質問に燐は何故か罰の悪そうな表情を浮かべた。

「?」

「あ、あぁ〜それなんだけどね。実は――」

「あんたがお燐に変な事するから悪いんだからね!」

 それでも説明しようとする燐を、今まで黙っていた空が遮った。
 その言葉から彼女が僕を敵視する理由が何となく解ったが……しかし僕が一体何をしたのだ?
 神社に来てから僕がやった事と言えば、偶々居た黒猫を撫でたくらいだ。

「…………猫?」

 そういえば、あの猫は唯の猫ではなく尻尾を二本持った猫又だったな。

 そして何より特徴的だったのはあの紅い瞳――

「もしかしてあの猫はお燐、君なのか?」

「あら、今気付いたの?」

「ふがー! ふがー!」

 小馬鹿にしたような笑みを僕に向けるお燐、彼女の背後には僕の推理を証明するように二本の尻尾が揺らめいていた。
 彼女が猫の妖怪だからだろうか、その様は面白ほど嵌っていた。
 ……尤も、お空を羽交い絞めにしながらではその魅力は半減していたが。

「まったく……おにーさんの撫で方があんまりにも巧いから、あたいもちょっと妙な気持ちになっちゃったよ」

「それはすまない。商売柄、ものは丁寧に扱うもんでね」

「まぁ、気持ちよかったからそれは良いよ。……けど、いきなり尻尾を掴むのは止めて頂戴よ? 敏感なんだから」

 人化しても尚ピコピコと揺れる二本の尻尾を撫でながら、燐は『メッ』と叱り付ける。
 それがなんだか子供扱いされているようで、僕は苦笑いを浮かべながら頷いた。

「……しかし、これでようやく納得がいったよ」

 チラリ、と僕は空の方に視線を向ける。
 相変わらず彼女は敵意を隠そうともしないが、その理由が解れば寧ろ微笑ましくもあった。
 要は、それだけ燐の事が大切なのだろう。

「……なによ」

「いや、なんでもないよ」

 考えている事が顔に出たのだろう、気付けば僕は口の端を小さく歪めていた。

「……それより、今日は霊夢は居ないのかい?」

 色々と疑問が解けたところで、僕は本題に入る。

「お姉さんなら今日は山に行くって言ってたよ」

 山……守矢神社だろうか?
 冬の山に登るとはまたご苦労な事である。
 しかし、それでは今日は帰ってきそうに無いな。

「? おにーさん、お姉さんになんか用事だったのかい?」

「いや、霊夢本人に、と言う訳じゃないんだが……。神社に温泉が出来た、と聞いたからね。それに興味があったんだ」

「お!」

 僕の言葉に、燐は何故か嬉しそうに両手を叩いた。

「そういう事なら最初に言ってよ! ほらほら、温泉はこっちだよ!」

「え、ちょ――」

 気付いた時には、僕は彼女に腕を掴まれ引き摺られていた。
 それなりに重いだろう僕を軽々と引き摺る辺り、外見は細いながらも彼女も立派な妖怪なのだな、と僕はぼんやりと考えていた。




* * *





「ふぅ……」

 紆余曲折の末、要約本来の目的である温泉に浸かり、僕は息を吐く。
 そこは中々どうして立派な温泉であった。
 これなら、本当に参拝客を寄せられるかもしれない――尤も、その目的は温泉だろうが。
 因みに、腰にはタオルを巻きつけたままだが、脱衣所には何故か『混浴』の二文字が書かれていたのだから仕方がない。

「しかし、良い湯だな……」

 僕には温泉の良し悪しは然程解らないが、それでも普段入っている風呂とは比べ物にならない事は解る。

「しかしあれだな……こう良い湯だと酒も欲しくなるな」

 星空(と言ってもまだ昼間だが)の下、こうして温泉に浸かりながらくいっと一杯……うん、風流だ。

「おにーさんならそう言うと思ったよ。……はい、熱いの」

「あぁ、ありがとう――うん、美味い……ん?」

 はて、今僕が手に持っているお猪口は何処から出てきたのだろう?
 少なくとも、僕は持ってきていない。
 それに今の声……物凄く最近聴いた記憶があるが、それは幾らなんでも――そう自分に言い聞かせて振り向く。

「……当たって欲しくない予感ほど良く当たるものだな」

「ん? なんか言った?」

「いや、なんでもない」

 予想通りといえばその通り、バスタオルを身体に巻き長い髪を結い上げた燐が、何故か僕の隣で別のお猪口を口に運んでいた。

「それでなんで此処に居るのかな? ……君まで」

「あ、貴方がお燐に変な事しないか見張りに来ただけよ! 別に、私は入るつもりなんて無かったんだから!」

「だから何もしないって。……そもそもまず彼女を止めてくれ」

 燐を挟み僕の隣で湯に浸かる空に、僕は深く息を吐きながら返す。
 また何か言い返すかと思ったが、意外にも空は僕同様疲れたように息を吐いていた。
 そんな僕等を見て、燐はケタケタと暢気に笑っている。

「まぁまぁおにーさん、両手に花なんだからもっと嬉しそうにしなよ。なんなら、色々とサービスしてあげよっか?」

 ニヤニヤと嫌な感じの笑いで僕に顔を近づける。
 間近に感じる彼女の吐息は、温泉の匂いに混じって解りにくいが仄かに酒臭い
 完全に出来上がっているようだが……何時の間にそれだけ飲んだんだ?

「むぅ……つれないなぁ。……じゃあ、こっちには付き合ってくれるでしょ?」

 そう言って指を刺したのは、先程から僕の手の中で所在無さげに揺れるお猪口だった。

「……まぁ、それくらいなら」

「そうこなくっちゃ!」

 酒が欲しい、と思っていたのは事実なので、特に不満も無く僕は頷く。
 そんな僕の反応に気を良くしたのか、燐は満面の笑みで新たに酒を注いでくる。

「そんじゃ、かんぱ――」

「おっと待った」

「――い……ん?」

 自分の分も注ぎ終わった燐がお猪口同士を打ち合わせようとするが、僕はそれを制止する。
 何で、と燐は眼で訴えてくるが、僕はそれを無視して反対側に向き直った。

「君もどうだい?」

「うにゅ?」

 まさか自分に振られるとは思っていなかったのだろう。
 それまで、相変わらず憮然としていた空はその瞬間呆けたように表情を崩した。

「……………………」

「なに、君だけ除け者にするのも悪い気がしたからね」

 じっと僕を睨むようにして考え込む彼女だったが、やがて一つ息を吐きコクンと頷いた。

「それはよかった。……ほら」

 僕は安堵の息を吐き、お盆に載せられていたもう一つのお猪口に酒を注ぎ手渡す。

「それじゃあ、改めて乾杯だよ!」

 空のお猪口に酒を注ぎ終わったところで、燐がザバァ、と音を立てて勢い良く立ち上がる。
 やれやれ、温泉はもっと静かに楽しむのが礼儀だろう……そう思うも、酔っ払った相手には通用しないだろう。

「ほら、二人ともかんぱーい!」

「かんぱーい!」

 見れば、空も笑顔で燐の後に続いていた。
 出会ってからずっと敵視されていたから解らなかったが、あの表情こそが彼女の素顔なんだろう。
 そう思うと、自然と笑みが浮かんでくる。

「ほら、霖之助も乾杯しなさいよ!」

 もうすっかり警戒を解いている空に苦笑しながら、僕は彼女等のお猪口に自分のそれを打ちつけ、一気に呷った。




* * *





『なんか五月蝿いわねぇ』

 そんな声が聞こえたのは、燐が用意した酒の九割ほどを消費した頃だった――良く良く考えれば、どんだけ持ってきたんだ彼女は。
 どこかで聴いた事もあるような気がしたが、長時間の入浴と飲酒で適度にふやけた頭ではその答えが出てこない。
 まぁ、声が聞こえたという事はその主はこっちに向かっているのだろう。
 僕が考えずともすぐに答えは出る――そう判断し、僕はお猪口の中身を一気に呷る。
 すると間髪入れずに空が新たに注いでくれた。

「あぁ、ありがとう」

 頭を軽く撫でながら礼を言うと、彼女は気持ち良さそうに目を細める。
 酔いの影響もあるだろうが流石は鳥の妖怪、最初の敵意は何処へやら、だ。
 まぁ、僕としても嫌われているよりかは好かれる方が良い。

「な〜んか良い雰囲気だねぇ。おにーさん、おくうみたいのが好みなの?」

 しかしそこに燐が割って入ってきた。

「いきなりなんだ。別に僕はそんなんじゃないよ」

「ふ〜ん……あぁ言ってるけど、おくうはどうなのさ?」

「んー? 私はりんのすけの事すきだおー」

「……だってさ?」

「やれやれ、酔っ払いの言う事を真に受けるのはどうかと思うよ?」

「えー? でも、酔ってるからこそ本音が出る事もあるよ? ……と言う訳で、えい!」

「ん? おわぁ!?」

「にゅ!?」

 ニヤリと一際嫌な笑みを浮かべると同時に、燐が僕の背中をそっと押した。
 しかし、見掛けからは想像できない怪力に加え、酔いで身体に力が入らず僕は呆気なく崩れる――空に向かって。


 ――ドボオォガラッォォオン!


 次の瞬間、盛大な音を立てて僕と空は倒れ込んだ。

「あつつ……」

「がぼ、ごぼ……ぷは!」

 僕は手を付いてギリギリで耐えたが、巻き込まれた空はもろに湯の中へ倒れこんでしまった。
 苦しそうにもがく彼女だったが、暫くして何とか顔を出し息を吐く。

「やれやれ、お燐もとんでもない事をするな……大丈夫か?」

「あ、う……」

「?」

 顔に何か付いているのか、空は呆然と僕の事を見つめている。
 しかしそれを気にする間もなく、僕はある事に気付いた。
 脱衣所の入り口に誰かが立っている……あの紅白の衣装は霊夢、か?

「あらあら霖之助さんったら、随分と楽しそうねぇ……」

「何処をどう見たらそう思えるんだい?」

 むしろ僕は被害者だと言うのに、この状況を『楽しそう』とは暢気にも程があるな。
 しかし、何故霊夢は笑顔なのにそれを恐ろしく感じるのだろうか?
 額にも青筋浮かんでるし。

「まさか、霖之助さんに女の子を押し倒す度胸があったなんて知らなかったわ。温泉で脳がふやけた? それとも酔ってる? どちらにしろただで帰れると思わない事ね」

「だからそれはごか――む?」

 言葉の途中で真下に居た空、更には燐にまで抱きつかれる。
 霊夢の人間離れした殺気に当てられた所為か、二人の顔はこれ以上ないほど青ざめていた。

 それを見て、霊夢は更に笑みを深くする。

「うふ、ウフフフフフ……カクゴはイいかしら、リンノスケさん?」

 次の瞬間、僕の視界は白く染まった。

 意識が途絶える間際、僕は唯一言呟く。


 ――理不尽だ、と。














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