【僕と私の過ごし方】
「おや、あれは……」 山や森の木々が紅く色付き始めた、とある秋の日の事。久しぶりに人里に来ていた僕は、見覚えのある後姿を見つけた。若干冷え込んできた最近でも、変わらず腋を出している紅白の装束――間違えようも無い、霊夢だ。別に無視する理由も無いので、僕は彼女の元に歩み寄る。 「……ん? あら、霖之助さんじゃない」 僕が口を開こうとするのを遮る形で、霊夢が振り向いた。別にこっそり忍び寄ったつもりはないが、辺りは人通りが多く背後から近づかれたらまず気付けない。にも拘らず僕の接近を察知する辺り、相変わらず勘の鋭い娘だ。 「やぁ、霊夢。……珍しいな、里で君を見るのは」 「それはこっちの台詞よ。出不精の霖之助さんが里まで来るなんて、何の異変かと思ったわ」 「随分と酷い言い草だな。僕は唯足りなくなった物の買出しに来ただけだよ」 「ふぅん。……ま、私もそうだけど」 その言葉通り、彼女の腕には様々な生活用品や食料が入った袋を抱えていた。どうやら、買出しというのは本当らしいが……僕はふと思う。「……ちゃんと代金を払っているんだな」 「は? 当たり前じゃないの。私が泥棒なんてする訳無いでしょ」 「僕は君から代金を受け取った記憶が無いのだが」 「あれはツケてあるだけでしょ。そのうち纏めて払うわよ」 「……こうして買い物する余裕があるなら、まずツケの方を払ってほしいと思うのはおかしい事かな?」 「おかしいわね。ツケはすぐに払わなくても大丈夫だけど、買い物はしないと生活できないじゃない」 「それだと僕の方が生活に困るんだが」 「霖之助さんは半妖だから平気でしょ」 ……暖簾に腕押しとはこの事か。まぁ、今更素直に払ってくれるくらいなら、最初からツケなどしてないだろうが。 「そんな事はどうでも良いわ。それよりも、霖之助さんは今暇?」 「僕にとってはどうでも良くないのだが……。まぁ、買い物も済んだし、暇と言えば暇だね」 「それなら、そこでお茶でもどう?」 そう言って彼女はすぐそこにある茶屋を指差した。「……いったい、どう言う風の吹き回しだい?」 「特に深い理由は無いわよ? ただ、此処のお茶と菓子が美味しいって聞いたから寄ってみたかったのよ」 そう言えば、確かにそんなような事が少し前の文々。新聞に書かれていたな。「……で、結局お茶するの?」 「僕は別に構わないよ。……君が奢ってくれるのかい?」 「まさか。こう言う時は男性が払うのがマナーでしょ」 「……別に良いけどね」 やれやれ、こういう時だけ僕を男扱いするのだから困ったものだ。まぁ、この分もツケにしっかり加えておくのだが。「そう、それじゃあ早速行きましょ」 そう言うや否や、霊夢は僕の手を引きズンズンと茶屋に突撃して行くのだった。「――あら美味しい。噂通り、お茶も菓子も中々ね」 茶屋の席についてから十数分後。僕の対面に座る霊夢は、今まで見たことも無いようなご機嫌な表情で、お茶を啜り団子を口に放り込んでいた。因みに僕はお茶だけだ。……霊夢にどれだけ奢らせれるか解らないからな。 「はむ……霖之助さんは食べないの?」 「生憎、そこまで懐に余裕は無くてね。……せめて、誰かさんがちゃんとツケを払ってくれていたら、こんな思いをせずとも済んだのだが」 「ふぅん、酷い奴も居たものね」 君の事だよ――そう視線で投げ掛けてみるが、霊夢は何処吹く風だ。とは言え、腹が膨れて機嫌が良くなっているのだろう。皿から団子を一串手に取り、僕の目の前に差し出してきた。「……まぁ、折角奢ってもらったんだから、一つくらいなら食べても良いわよ?」 「一つだけかい?」 「これが最後の一本なのよ。文句言うならあげないわよ?」 言われてみれば確かに、皿の上には既に餡しか残っていなかった。随分な量を注文していた筈だが何時の間に食べたのだろう――等と呆れ半分、感心半分で眺めていると、霊夢はグイッと更に団子を押し付けてくる。団子にたっぷりと掛けられた餡の仄かな香りが、僕の鼻腔を刺激し無意識に唾を飲んだ。 「それで、結局いるの? いらないの?」 「……貰おう」 代金を払うのは僕なのだ、遠慮する理由はないだろう。そう自分を納得させ、彼女の手から串を受け取ろうとして――何故か霊夢は手を引っ込めた。「……霊夢?」 「あら、何かしら?」 「くれるんじゃないのかい?」 「えぇ、そうよ。だから、霖之助さんあーん」 「…………何故に?」 「だって、これ渡したら霖之助さん全部食べちゃうかもしれないじゃない」 「そんな風に見られていたのか、僕は……」 「まぁまぁ、気にしないの。……はい、あーん」 それは君が言う台詞ではないと思うが――そんな思いを視線に込めて睨み付けるが、霊夢は全く気にした様子もなく団子を口元に差し出す。暫くそれを眺め、そして小さく息を吐いて僕は団子に齧り付いた。 「むぐ、むぐ……うん、美味いな、これは」 「そうでしょ? 来て正解だったわよね」 それなりに付き合いの長い僕でも、殆ど見た事の無い満面の笑みを浮かべている辺り、本当に満足しているのだろう。それを見る事が出来ただけでも良しとするべきか……。「? 何ニヤニヤしてるのよ?」 「いやなに、偶にはこういう所に来るのも良いものだな、と」 「そうね。私も普段は神社か香霖堂くらいにしか行かないし」 それは幾らなんでも行動範囲が狭すぎだろう――そう思うも、僕のは更に狭いので黙っておく事にする。「だが、君は幻想郷の主だった連中の殆どと知り合いなのだろう? 彼女らの所には行ったりしないのか?」 「面倒臭い」 「……そうか」 僕の疑問を立った一言で切り捨てた霊夢は、手に持った湯飲みを一気に傾ける。「あ、そうだ」 空っぽになった湯飲みを置くと同時、霊夢は何かを思い出したように口を開いた。「そういえば明日は満月だったわよね?」 「……あぁ、そう言えばそうだったな」 言われて思い出す。ついでに言えば、今日は唯の満月ではなく中秋――要するに十五夜だ。伝承では、かの輝夜姫が月に還ったともされている――実際にはこの幻想郷でのんびり暮らしているようだが――日だ。 「それで、折角だからお月見でもどうかしら? 勿論月見団子とお酒の用意はお願いね」 「……おいおい、団子なら今たっぷり食べただろう?」 「それはそれ、これはこれよ。それに、お月見に月見団子が無いと締まらないじゃない」 まったく、食い意地の張った子だ……言っている事は解るけれどね。だが…… 「悪いが、僕は遠慮させてもらおう」 「えー!?」 丁重に、しかし決して言葉には衣着せずお断りすると、霊夢はさも意外そうに声を張り上げた。……よほど月見団子が楽しみだったのか。「まぁ、そういう訳だから諦めてくれ」 「むー……。霖之助さん、明日は何か用事でもある訳?」 「…………そんなところだ」 適当な言葉でお茶を濁しつつ、僕は支払いの為に席から立ち上がる。そろそろ良い時間だ。これ以上のんびりしていたら、帰りは真っ暗な道を歩かねばならなくなるだろう。霊夢もまだ納得した訳ではなさそうだが、特に不満も無く僕に続いた。 「やれやれ、今日は君のおかげで思わぬ出費を喰らってしまったよ」 「あら、そんなのいつもの事じゃないの」 「……自覚があるのならツケを払ってくれないか?」 「お賽銭が入ったらね」 そんないつもどおりの会話をしているうちに、博麗神社と魔法の森との分かれ道に差し掛かる。そこで軽く挨拶をしてそれぞれの帰路についた。去り際に霊夢が何か言っていた気がするが……あれは来る気だろうな、明日も。 「……面倒な事にならなければ良いが」 僕は肩を竦めながら、緋色の世界の中でうっすらと輝きだした小望月を見上げた。* * * ――翌日。 「……あれは絶対に何か隠してたわよね。きっと、月見団子を独り占めする気に違いないわ!」 以前、魔理沙が花見に誘ったが断られたというのも、きっと同じような理由に違いない――そんな事を考えながら、私は月明かりの下香霖堂に向かっていた。それにしても、今日はやけに月が紅い。 その所為か、妙な胸騒ぎが私の中に生まれつつあった―― 「…………ん?」 人里と香霖堂の中間辺りまで来た頃だろうか、視界の隅に人影のようなものが過ぎった。それが一瞬だったのと暗かった事ではっきりとは解らないが、私の見間違いでなければあれはちょうど霖之助さんくらいの背丈があったように思える。 しかし、こんな時間にいったい何処に行こうというのだろうか? ガラクタ拾いに行くにしては遅い時間だし、もしかしたらその帰りなのかもしれない。或いは、今からお月見の絶景ポイントにでも行くつもりだろうか? 出不精気味な霖之助さんがわざわざそんな事するとは思えないが……まぁ、訊いてみれば済む事だろう。 そう判断した私はふわふわと高度を落とす。といっても、元々大して高い所を飛んでいなかったので、着陸するのに数秒と掛からなかったが。 「さて、霖之助さん(仮定)は何処かしらね……?」 きょろきょろと辺りを見渡してみるが、何の気配も感じられない。気の所為だったのだろうか?まぁ、月明かりがあるとは言え、夜の闇の中で人間の目がどれだけ役に立つかなど高が知れているのだが。 「……ま、いっか」 暫く辺りを眺めてから、私は一つ息を吐いた。やはりさっきのは気の所為だったみたいだ。多分、大型の獣か何かを見間違えただけだったのだろう。そう結論付けて再び飛び上がろうとしたその時、 ――カサリ。 「ッ!?」 背後の茂みから何者かの気配を感じた。咄嗟に懐から御札を取り出し振り返るが、しかしそこには何も居ない。――カサ、ガササッ! 「そっち!?」 今度は左、その次は右。まるで私を嘲笑うかの如く、それは私の周囲を這い回る。妖獣か妖怪か……どちらにしろ、満月に中てられて理性を失っている時点で低級な奴だろう。ならばさっさと片付けて先を急ぐべきだ。 「――そこ!」 「ガアッ!?」 敵の次の行動を予測し(主に勘で)、そちらに向けて御札を飛ばす。直後響いた悲鳴――手応え有りだ。居場所を補足したのなら手を緩める道理は無い。続けて更に御札、そして新たに取り出した封魔針を放つ。敵は辛うじてそれを躱したようだが、完全に避け切れなかったのだろう、小さく悲鳴が零れた。 「雑魚の癖に動きだけはすばしっこいわねぇ……《霊符「夢想封印」》!」 取り出したスペルカードを掲げると同時、私の胸元から無数の光弾が放たれる。敵に向かって自動追尾されるそれは、私の正面にあった茂みに向かって飛び、そして爆ぜた――「…………逃げられたみたいね」 木々を薙ぎ払い、地を抉り、辺りを真昼の如く照らす閃光の中で、敵が背を向け駆けて行ったのを私ははっきりと見た。その結果に、小さく舌打ちをする。 妖怪退治が目的ならこのまま追いかけるのだが、生憎今日は別の目的がある。雑魚に拘って月見団子を逃したりしたら……それはそれでまた霖之助さんに作ってもらうのだが、やはり悔しい。無駄に消費した分の時間を取り戻すべく、私は最大まで速度を上げ、香霖堂に向かうのだった。 「……?」 ようやく目的地に着いた私は、即座に異変に気がついた。「この臭いって……」 辺りに微かに漂うそれは、間違いなく血の臭いだった。足元を見れば、暗くて解りにくいが地面に赤黒い染みがぽつぽつと見られた。そしてそれは、目の前の建物――香霖堂に向かっているように見える。「まさか……さっきの奴此処に!?」 思い返してみれば、先程の妖怪が逃げたのは確かに此方の方に思えた。もし、あの妖怪が此処に逃げ込んだのだったら、「――まさかッ!」 良く当たると評判の私の勘が、よりにもよって最悪の結末を告げ、頭から急速に血の気が引いていく。あの霖之助さんが簡単に死ぬような人物とはとても思えないが、しかし相手は手負いの妖怪。しかも悪い事に今夜は満月で、妖に連なる者は皆その影響を受けている。普段なら大した事が無いような雑魚でも、十分に脅威となる可能性があるのだ。 「くっ、あいつ……事と次第によっては唯じゃ済まさないわよ!」 人間(?)関係については自他共に認める淡白な私だが、霖之助さんが危ない目にあっていてそれを助けないほど冷たくは無い。なんだかんだ言って、私と霖之助さんはそれなりに長い付き合いだし、彼に世話になった事は数え切れないくらいある。まぁ、ようするに私にとっては兄のような相手なのだ――本人には決して言わないけど。 「霖之助さんッ!」
焦りと不安からか擦れた叫びを上げ、私は香霖堂の扉を蹴破る。もし彼が無事ならば、きっと顔を顰めて何処かの閻魔のようにネチネチと説教を垂れてくるだろう。普段なら適当に流すそれも、今なら此方から聞きたいくらいだった。 「…………ッ!」 所狭しと物が置かれ、さながら香霖堂の背後に広がる魔法の森のような混沌とした様相を醸し出す店内。その中心で霖之助さんはぐったりと倒れていた。おそらくはさっきの妖怪に襲われたのだろう。彼の身体は遠目から見てもはっきりと解るほど全身に無数の傷があり、そしてそこから溢れ出る赤い紅い命の灯火……危険な状態である事は誰の目にも明らかだった。 「霖之助さん! しっかり!」 彼を抱き起こそうとして――しかし直前で私は躊躇う。半妖の生命力がどれほどのものかは知らないが、人間であれば致命傷は間違いないこの状態で安易に動かすのは危険だ。しかし、すぐに手当てをしなければならないのもまた事実である。せめて此処にもう一人誰かが居れば、私が応急手当をしている間に永琳を呼んで来てもらえるのに。 「無いものねだりしても仕方ないわね……。霖之助さん、もうちょっと踏ん張りなさいよ!」 霖之助さんを、そして私自身を鼓舞するように声を張り上げ、私は辺りを見渡す。偶に忘れてしまいそうになるが此処は店で、様々な物が置かれている。それに永遠亭の連中は、人間は無論妖怪相手にも薬を配り売りしているのだから、此処だけ無視する事も無いだろう。探せば手当てに使えそうな物は必ずある筈だ。よし、ともう一度気合いを入れ、私は店の探索を開始するのだった。 * * * 「ん、む……」 目が覚めて、まず最初に感じたのは全身を苛む鈍痛だった。軽く首を動かして身体を確認すると、どうやら大怪我を負っているらしく全身に包帯が巻かれていた。しかし、何故そんな大怪我を負っているのかと昨日の事を思い出そうとしても、出てくるのは電流の如き鋭い痛みだけ。それこそ、昨日の天気や何を食べたかさえも思い出す事が出来ない。 「決して呆けてる訳じゃないぞ、純粋な人間に換算すれば僕はまだ二十代だからな……って」 一体誰に言い訳しているんだ僕は……やれやれ、本当に呆けたか?「んん……んぬぅ……」 「……?」 自分で自分に呆れていると、腹の方から微かな呻き声が耳に届いた。そう言えば、妙に身体が重いな。最初は傷の所為かと思ったんだが……改めて意識してみると、それは人が乗っているような感覚であった。 「…………人?」 ちらり、と視線を腹部に向ける。案の定と言うべきか、そこには見覚えのある紅白の物体が、僕の腹に突っ伏していた。 恐らくは、昨日香霖堂に来た際に倒れていた僕を発見し、慌てて手当てしてくれたのだろう。その証拠に、普段はそれなりに整理してある筈のこの部屋もやたらと散らかっている。 それほどまでに心配してくれた、と言う事だろうか? 「だと良いが……霊夢の事だ、どうせタダ茶が飲めなくなるから、とかそんな理由だろうな」 「あうぅ……?」 いつもの癖で肩を竦めた所為か、それまでぐっすり眠っていた彼女がもぞもぞと動き出す。そして普段の憮然とした表情からはまるで予想できない、実に無防備な顔で僕の顔を覗き込んできた。 「…………りんのすけさん……?」 「あぁ、そうだ。起きたのなら退いてくれないか? 結構重くてね」 別の見方をすればそれは成長の証とも取れるのだが、しかし今の僕にそのような感慨を抱く余裕は無かった。「あ……うん……」 霊夢も霊夢で寝惚けてまだ頭が殆ど働いていないのだろう。特に何を言うでもなく素直に僕の上から退く。そして小さく欠伸をしたと思ったら、そのままコテンと床に突っ伏してしまった。 「…………」 これはちゃんと起こした方が良いのだろうか? 下手に起こせば文句を言われそうだが、放っておいても後で何か言われそうだ。どちらにしろ文句を言われるのは同じか、ならさっさと起こすべきだろう。僕が昨日の事を覚えていない以上、状況を把握する為には霊夢から話を聞かなければならないからな。 「つつ……霊夢、起きろ」 痛む身体を無理やり起こし、僕は霊夢の方を小さく揺する。最初は小さく呻いていた霊夢だったが、徐々に手に力を入れ始めた僕に苛ついたのか、ガバッと起き上がった。 「うるさーい! 人が折角ぐっすり寝てるのに邪魔するんじゃないわよッ! ……って、あれ?」 「おはよう霊夢。とりあえず顔を洗って来たらどうだい? 頭がすっきりするだろうし、何より今の君は中々に酷い顔だからね」 主に涎とか寝癖とか。とてもではないが、年頃の娘がする顔とは思えない。 「なっ……!?」 一瞬反論しようと口を開いた霊夢だったが、僕の言葉が正しいと理解したのだろう。顔を真っ赤に染め慌てて部屋から飛び出していった。「それで? 大丈夫なの霖之助さんは?」 暫くして戻ってきた霊夢は、開口一番にそう尋ねて来た。顔を洗った際に水が掛かったのか、しっとりと濡れた彼女の前髪は外から入る日の光を反射し、微かに輝いている。最も無防備な所を見られた所為か、その表情はいまだに不機嫌そうではあるものの、どうやら僕の事を心配してくれているのは確かのようだ。 「大丈夫でなければこうして起き上がる事も出来ないよ。幸い、生命力だけはそれなりにあるからね」 「そう」 皮肉気味に返した言葉だったが、それが幸いしたのだろう。相変わらず不機嫌そうな表情ではあるものの、霊夢は微かに口元を緩めていた。正直なところ、まだ少し動くだけでも辛い状態なのだが……言った事は嘘ではないし、余り心配させる事も無いだろう。 「それで少し話を聞きたいんだが」 「話?」 「あぁ、実は昨日の事についてなんだが」 「…………呆けた?」 「その返事は何となく予想していたよ」 真顔で失礼な事を言ってくる霊夢に、改めて僕には昨日の記憶が無い事を告げる。初めこそ普段と変わらない様子で聞いていた彼女だったが、次第に表情が厳しくなっていく。 「昨日の記憶が無いって事だけど……どのくらい憶えてないの?」 「憶えてない……と言うよりかは、記憶がすっぽり抜け落ちた感覚だね。ここまで綺麗さっぱりに無いと、逆に清々しいくらいだ」 その言葉は嘘ではない。もし中途半端に記憶が無いのであれば、きっと僕は必死に思い出そうと延々と頭を捻り続けるだろう。その様子は、痒い所に手が届かない状況と似ている。だが、それはあくまで一部分だけ≠ェそうだった時の事だ。丸一日分の記憶が無ければ、それは本来の昨日が無くなり一昨日がその位置に来るだけの事である。 幸いな事に僕は目の前の少女と違って、波乱万丈な生活など送っていない。よって、一日くらい無くなった所でまったく問題は無いのだ。 「……でも、昨日があった≠チて記憶は残ってるんでしょう? そうでなきゃわざわざ私に訊ねりはしないし」 「まぁ、ね」 僕の憶えている昨日についての唯一の記憶。それは霊夢の行ったとおり、昨日があったという事だけだ。やれやれ……何故僕の頭はそれだけ憶えているのかね。折角九十九の記憶を忘れているのなら、いっそ百全部を消してくれて良かったのに。これでは気になってしょうがないではないか。 「まぁでも、折角憶えてるんだったら話しておいた方が良いかもね。私も色々気になる事があるし」 僕と同じように肩を竦めた霊夢は、傍らに座りぽつぽつと語り始めた。「――って訳なのよ」 十数分後、一通りの事を話し終えた霊夢が疲れたように息を吐く。決して彼女は口下手という事は無いが、人に何かを説明する、と言うのは普通に喋るよりも断然難しい。以下に相手に理解できるように噛み砕いて、手短に話せるかが大切なのだ。霊夢がその程度の事を気にするとは思えないが、それでもやはり疲れたのだろう。 普段のはきはきとした物言いとは異なり、たどたどしく語る彼女の様子に僕は思わず口元を緩めつつ、しかし頭の中では聞き出した情報を冷静に分析していた。 「まったく……野良妖怪は逃がすし霖之助さんはこんなだし、碌な事が無かったわね昨日は」 「……そうだね」 どうやら霊夢は僕の怪我の原因が、その野良妖怪だと思っているようだ。だが、僕の中にはある可能性が浮かんでいた。「……? どうしたの? 難しい顔して」 「いや、何でも無いよ」 しかし霊夢が納得しているのであれば、敢えて言う必要もあるまい。「そう……? なら別に良いんだけど。……それよりもお腹空いたわ。色々あったから昨夜から何も食べてないのよね」 ……それは言外に、『手当てしてあげたんだからお礼寄越せ』と言っているんだろうか? 言っているんだろうなぁ……視線も何やら期待しているようだし(そう言うには少々強烈な視線だが)。やれやれ、と僕は小さく肩を竦めた。 「台所に有る物を好きにして良いよ。だが君も知っての通り僕はこの状態だ。用意は自分でしてくれ」 「解ってるわよそれくらい」 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、実に嬉しそうな笑顔を霊夢は浮かべる。と、その時僕はある事を忘れていた。 「霊夢」 「ん、何? 霖之助さん?」 立ち上がる動作を途中で止め、僕の方に顔を向けた彼女の頭にぽふっ、と手を乗せる。普段からふわふわしている彼女ではあったが、その髪はやはりふわふわしていてとても触り心地が良かった。思わず、ずっと触っていたくなってしまうような、そんな心地良い感触だ。 「えーと……霖之助さん、これは一体?」 余程僕の行動が予想外だったのか、霊夢はポカンとした表情で僕を見上げている。 だが、決して嫌な訳ではないのだろう。その証拠に、彼女は僕の手を振り払ったりはしなかった。「いやなに、今回君には色々と迷惑を掛けたからね……その、ありがとう」 普段の僕であれば決して口には出さないであろう、素直な感謝の言葉。先程以上の衝撃を受けたのか、霊夢の表情は呆然を通り越して疑惑の色に染まっていた。 「……………………偽者?」 「おい」 確かにらしくない事をした、とは我ながら思っているが、それは無いのではないだろうか? 霊夢のあんまりな言葉に思わず、礼代わりに付け加えようとしていたツケの一部撤回を取り消そうか、等と考えてしまう。しかし次の霊夢の顔を見た瞬間、そんな考えは吹き飛んでしまった。 「あ、れ……?」 霊夢の大きく丸い瞳から一つ、二つ、零れ落ちる雫。それを眺める僕は勿論、霊夢自身もその唐突な涙は思いがけないもののようだった。慌てて目元を拭うが、彼女の意思に反して涙は次から次へと溢れ出てくる。 「何、これ……幾ら拭っても、止まら、ない……!」 突然の事にかつて無いほど取り乱す霊夢を、僕は無言で抱き寄せた。途端、彼女は僕の胸元に顔を押し付けてくる。『空を飛ぶ程度の能力』――重力、即ち何者にも縛られない筈の彼女が、こうして誰かの為に泣いている。 それは普段の彼女を知る者からしてみれば、それこそ異変かと思われかねない事態だ。 「……だが、悪い気はしないな」 彼女は博麗の巫女≠ニしてではなく、博麗霊夢≠ニ言う一人の人間として僕を心配してくれた――そんな彼女の気持ちが、不思議とこそばゆかって……そして嬉しかった。「ふぅ……」 部屋の前の縁側に腰掛け、一つ息を吐く。あれから霊夢は、泣き疲れたのかそのまま眠ってしまった。恐らくは僕の手当てをした際の疲労も抜け切っていなかったのだろう。床に転がしておくのも躊躇われたので、痛みの走る身体に鞭打って彼女を布団に寝かせてきたのだ。 本来ならば僕もまだ横になっていた方が良いのだが、動けないほどではない程度に回復していた。 「これに関しては感謝すべきなのかな……」 自嘲の笑みを浮かべ、闇夜に浮かぶ十六夜の月を眺める。僕は既に、昨日の騒動の原因があの月にある事を確信していた。 月と言う物は、古来より魔と密接な関係を持っている。満月の夜に人狼が狼に変身する、魔女達が黒ミサを開く……等と言うのは特に有名な伝承だ――幻想郷においては大体が事実なのだが。 僕が僅か一日で動けるまでに回復したのも、半妖の生命力とこの月の魔力の賜物なのだろう。 まぁ、結局何が言いたいのかと言うと……昨日僕は満月の狂気に呑まれてしまった、と言う事である。僕に流れる妖怪の血は然程濃いものではないが、しかし僕自身も特別鍛えているじゃない。 一旦呑まれてしえば、僕に抗う術はなかった。 ……無論、僕とて何の対策も講じていない訳ではない。妖怪除けの効果もある結界を常日頃から店に周囲に展開しており、これによって僕は野良妖怪から身を守ると同時に、自身の妖怪化を抑えてもいた。 「だが……」 昨日は二つ、普段と異なる事があった。一つは、異様に紅かったという昨夜の満月。 不吉の象徴としても扱われる事があるそれは、単なる伝承ではなく、明確な力を伴っている。即ち、通常時よりも月から放たれる魔力が増幅しているのだ。 元々、月は妖怪に影響を与える。それが最も強いのは満月の時――昨日だ。紅い満月となった事で、妖怪への影響力が普段の比ではないほどに増幅されてしまったのだろう。 「そしてもう一つは……」 僕は霊夢の顔を思い浮かべる。博麗の巫女――それも歴代最高と云われる力の持ち主である彼女が、僕の元を訪れようとしていた。彼女の並外れた霊力は、それこそ妖怪にとって仙人の肉に匹敵する御馳走である。 紅い満月の狂気と博麗の霊力――この二つが合わさり、ギリギリのところで抑えられていた妖怪としての本能溢れ出してしまったのだ。 言うなれば、飢えの余り付けられていた首輪を噛みちぎってしまった、というところだろう。そしてその御馳走を頂こうとして返り討ちにあった――それが昨夜の真実だと僕は考える。 「やれやれ……殺されかけた相手に助けられるとは、一体何の皮肉なんだか」 誰に愚痴るでもなく、そんなぼやきが零れる。幸いまだ霊夢はその事に気付いていないようだが……勘の鋭い彼女の事だ、いずれ勘付いてしまうかもしれない。 その時彼女はどう思うのだろう――本能に呑まれた僕を、退治すべき妖怪と認識するのだろうか? それとも―― 『何、これ……幾ら拭っても、止まら、ない……!』 脳裏に浮かぶ、先程の霊夢の泣き顔。何物にも捉われない博麗の巫女が見せた、一人の少女としての顔。また、あんな風に泣いてくれるのだろうか――僕の為に。 「まさか、な……」 僕は自分のらしくない妄想を、頭を振って打ち消す。きっと偶々、気の迷いに過ぎないのだろう――彼女の涙も、僕の妄想も。やれやれと方を竦めながら戻った部屋の中央では、今も霊夢が穏やかな寝息を立てている。その寝顔は、普段の大人びた(無愛想な)ものとは裏腹に、年相応の実にあどけないものだ。それを眺めていると、やがて僕にも睡魔の手が伸びてくるのを感じる。抗う理由もないから、僕は誘われるままに意識を手放す事にした。 その間際、ふと先程見た夜空を思い出す。 ――あぁ、今日の月は綺麗だった。 2008/12/12:掲載 |