【本と人間と妖怪と】
――夏のとある日、僕は久方ぶりに仕入を行おうと無縁塚に向かっていた。 連日猛暑が続いていた中では(比較的)涼しい日を選んだつもりだが、それでも夏の太陽はギラギラと輝き僕の体力を奪う。 「これならば、大人しく店に居た方が幾分かマシだったやも知れないな……」 そう呟くのももう何度目か。 首筋に張ったひえぴたしーと≠ネる物が無ければ、とっくに力尽きていただろう。 これは以前仕入れたのだが、実に素晴らしい物で冷やしたい箇所に張るだけで見る見る熱を吸い取っていく。 効果が数刻にも及び持続するのも素晴らしいが、何より驚くべきはそのメカニズムであろう。 冷える物、冷気を発する物と言われて、真っ先に思い浮かべるのは氷だ。 だがこのひえぴたしーとに使われているのは、半液体状の物質であるジェルである。 身近な物だと寒天や蒟蒻といった所か。 これらは触れば確かにひんやりとしているものの、このひえぴたしーとのように熱を冷却するほどではない。 ではどうすれば冷却効果が生まれるのか? 僕はこれを唯の物質ではなく、魔力が付加された物だと考える。 ジェル状で魔力を持つ物――そう、スライムだ。 スライムとは魔界に生息すると云われる魔法生物で、粘性の高い液状の身体を持つ。 魔法生物、と言ってもスライムは下位の存在であり、魔法を少し齧った程度の者でも容易に使役する事が出来る。 このスライムを材料として使う事で、ひえぴたしーとは作り出されているのだろう。 「外の世界では魔法は既に廃れたと聞いていたが……案外そうでもないらしい。……っと」 いつか訪れるであろう外の世界に想いを馳せているうちに、目的地へと辿り着いた。 久方ぶりに訪れるそこは、相も変わらず静かな様相を醸し出している。 喧しいくらいに響き渡っていた蟲の声も、此処では微かに遠く聴こえる程度だ。 その雰囲気に当てられたのか、幾分気温が下がったようにも感じられる。 「これで本当に涼しくなれば良かったのだが……」 心頭滅却すれば火もまた涼し、とは良く言うが、暑いものはやっぱり暑いのである。 出来る事ならば頭から思いっきり水を被りたいが、生憎近くにある水辺は三途の河しか無い。 この河では体が浮く事が無いそうなので、うっかり足を踏み外したりでもすればあれよあれよと言う間にあの世逝きだ。 僕としてはまだまだ死ぬ気は無いので、極力近づきたくない――君子危うきに近寄らず、である。 それよりも、さっさとめぼしい物を手に入れてさっさと帰る方がよっぽど良いだろう。 そう判断して僕は、暑さと疲労で消耗しきった身体に鞭打って周囲の探索を開始した。 …… ………… …………………… 「ふむ、これも中々面白そうだな」 それから半刻ほど、僕は背負った籠に次々と収穫物を放り込んでいく。 久しぶりに訪れた為か、今回は何時にも増して豊作だ。 此処までの疲労もすっかり吹き飛んで、僕は傍目から見ても解るだろうほどご機嫌であった。 そして次の品に手を伸ばした時―― ――むにゅ。 「…………む?」 今までとは明らかに異なる質感。 まるで、人肌のような……。 「って、本当に人……というか妖怪か」 地面に転がるようにして僕の手の先に居るのは、幼い風貌の少女であった。 背中と後頭部から生える鮮やかな色の翼と、額の小さな角が彼女が人間ではない事を語っている。 その顔に、僕は見覚えがあった。 「……非ノイマン型計算機の未来=v それは以前、霊夢が妖怪から強奪して僕の所に持ってきた本の名であった。 その直後、前の持ち主だったらしいこの少女が襲撃して、そして今度は魔理沙に返り討ちにされたのだ。 「あ、うぅ……」 ギュッと目を瞑った妖怪少女が小さく呻く。 もしや、僕が押し倒したのだろうか――そう思うも、その可能性をすぐに頭の中から排除する。 手を伸ばした時僕は特別力を込めた訳ではないし、どちらかというとこの少女は最初から倒れていたようだ。 良く見れば、少女の顔は不自然に赤く息も荒い――熱中症の症状だ。 周囲日本が散らばっている事から、どうやら彼女も僕と同様の目的で此処を訪れていたらしい。 しかし、彼女が身に纏っているのはやたらと装飾の施された外の世界ではゴスロリと言われている、如何にも通気性の悪そうな服だ。 通気性が悪い、と言えば僕の服も中々だが、それに加えて彼女の服は熱を吸収しやすい黒を基調としている。 これで夏の炎天下に出れば、熱中症になるのも当然だろう。 「やれやれ、仕方あるまい……」 仮にも相手は妖怪。 放っておいても大事に至る事は無いだろうが、このまま放っておくのも気が退けた。 それに、周囲に散らばる本を見る限り、どうやら彼女は色々と本を集めているようだ。 もしかしたら、僕は無論紅魔館の大図書館にも無いような貴重な書物を持っている可能性もある。 非ノイマン型計算機の未来の件もあるから、それは十分に高いだろう。 ならば、此処で恩を売っておくのも良いかも知れない――そんな打算的な考えの元、僕は腰に掲げた鞄から予備のひえぴたしーとを取り出した。 それを彼女の額に張り、同じく鞄から取り出した水筒を彼女の口に当てて水を飲ませてやる。 日射病の対処には、冷却と水分補給が基本だ。 「よっと……」 しかしこのままでは不十分なので、僕は周囲に散らばる本を集め籠に放り込むと、彼女の膝裏と背中に腕を回す。 そしてゆっくりと持ち上げ、僕は無縁塚を後にした。 * * * 「ん、んん……」 妖怪少女が目を覚ましたのは、香霖堂に戻ってから半刻ほど経った頃だった。 最初、半身を起こした少女はぼんやりとした表情で周囲を見渡していたが、僕の存在に気付くとキッと眦を吊り上げた。 「あーッ! あんたはあの時の青黒!? ……はぅ」 如何にも忌々しげに、勢い良く僕を指差して叫ぶ少女。 しかし次の瞬間、ふらりと姿勢を崩して再び布団に倒れこむ。 症状は軽かったとは言え、病み上がりで叫んだりすればそりゃ眩暈の一つくらいはするだろう。 そう僕が呆れている合間も、彼女は強い眼差しで僕を睨みつける。 やれやれ、随分と嫌われてるな。 「余り騒がない方が良い。君はさっきまで熱中症で倒れていたんだ。もう少し休んでいた方が良いだろう」 「そんな事よりも私の本返しなさいよ!」 聞く耳持たないとはこの事か。 まぁ、病み上がりでこれだけ叫べるならそれほど心配する必要も無いだろう。 元々妖怪だから、人間よりも回復力は高い筈だし。 「その話はとりあえず後にして、風呂を沸かしてあるから入ってくると良い。軽く拭いといたとは言え、かなり汗を掻いていたからな。身体がべたついてるだろう?」 「う……」 彼女はまだ何かを言いたそうな眼差しで睨んでいたが、結局汗による不快感が勝ったのだろう。 小さくコクンと頷き、風呂場に向かっていった。 ……やれやれ、今の内にどう彼女を丸め込むか考えておかないとな。 * * * 「ふぅ、さっぱり〜」 朱鷺子、と名乗った少女は目に見えてご機嫌な様子で居間へと戻ってきた。 よっぽど汗を流せたのが気持ち良かったのだろう。 ついでに過去の逆恨みも汗と一緒に流してくれるとありがたいのだが……そうも行かないんだろうな。 「水は要るかい?」 「あ、うん、お願い」 とりあえず水の入ったコップを手渡すと、彼女はコクコクとそれを飲み始める。 それを横目に眺めながら、僕は今日仕入れたばかりの本を手に取った。 今日は特に本が大量だったからな、暫くは退屈せずに済みそうだ。 「あーッ!?」 そんな事を考えていたら、突然朱鷺子が声を荒げて身を乗り出してきた。 「それ私の本!」 何かと思えば、何だそんな事か。 彼女のその言葉は十分に予想できるものであった。 何しろ、今日僕が仕入れた本の大半は彼女が集めたと思しき本なのだからな。 尤も、彼女の周囲に散らばっていただけで、本当に彼女が集めたのかは僕には知りようが無いのだが。 ……と自己弁護してみる。 とは言え、今後の事を考えたら彼女を余り怒らせない方が良いだろう。 「あぁ、これは倒れていた君の周囲に散らばっていた本だ。君が起きた時無いと困るだろうから、僕がついでに回収しておいたんだよ」 「え? あ、そうなの……?」 僕の言葉が予想外だったのか、彼女はキョトンとした表情で僕を見詰めてきた。 やれやれ……解ってはいた事だが、彼女の中で僕は霊夢や魔理沙の同類(=泥棒)だと思われていたらしい。 嘆かわしい事だ。 「ふむ、他になんだと思ったのかな?」 「あ、いや、その……ごめんなさい……」 僕が追撃を掛けると、朱鷺子は思っていた以上に素直に敗北を認めた。 シュンと縮こまるその様相は、何処か小動物的な雰囲気を醸し出して思わず頬が緩みそうになる。 それがあったからでは無いが、それ以上僕は彼女を弄る事はしない。 会話の主導権は既に僕が握っているのだから、必要無かったのだ。 ――そう、此処からは単なる談笑ではなく商売人としての取引の時間である。 「……朱鷺子、君に少し尋ねたい事があるのだが構わないかな?」 「え? う、うん、良いけど……」 「君は今日本を集める為に無縁塚を訪れていた……これで間違い無いかい?」 「あ、うん!」 突然雰囲気が変わった僕に戸惑っているのだろう、彼女は落ち着きを失い慌て気味にコクコクと頷く。 一方の僕は、この空間を自分が支配したかのような昂揚感を覚えて、割とノリノリだったりするのだが。 「と言う事は普段から本を色々と集めている、と言う事だね?」 「うん、家に帰れば色々あるわよ? ……私の一番のお気に入りはあんた達に盗られちゃったけど」 やれやれ、やはり水に流してはくれなかったか……まぁ、僕も魔理沙と霊夢のツケは全部覚えているのだが。 それは兎も角、この件に関してもちゃんと白黒付けておいた方が取引をする上で都合が良いだろう。 「いやいや、ちょっと待って欲しい。あれは僕が霊夢から没収した物なんだよ。君に返す為にね」 「…………本当にぃ? でも、あいつ等とは随分と仲良さ気だったじゃない?」 僕の言葉に朱鷺子は如何にも信じられません、と言いたげな眼差しを向けてきた。 ……まぁ、実際に今さっき考えた事を言ったのだが。 「いやいや、それは勘違いと言う奴だよ。 何しろあいつ等ときたら、勝手に商品を持っていくわ店を壊してくれるわ……。 確かに彼女達とはそれなりの付き合いだが、むしろそれ故にあいつ等は我が物顔で僕の店を蹂躙していくんだよ。 君のようにもっと本を読むようになれば、親しき仲に礼儀在りという言葉を知ってくれるのだろうか?」 「……ふぅん」 我ながら良くもまぁこんなに口が回るものだと思うが、嘘を吐いてはいない。 その証拠に、僕を見る朱鷺子の瞳は先程と異なり、同情の色を薄く見せ始めていた。 「……話を戻すが、君は本が好きで色々と集めている……と言う事で良いんだね?」 「しつこいわね。さっきそう言ったじゃない」 ふむ、これで前提となるものが満たされたな。 それではそろそろ、本格的に商談と洒落込もうか。 「……そこでものは相談なんだが、君の持っている本を僕に譲ってはくれまいか?」 「はぁッ!?」 僕の提案に、朱鷺子は予想通り驚愕の声を上げる。 それもそうだろう。 今さっき本を返すと言ったばかりなのに、今度は本を譲ってくれと頼んでいるのだ。 勿論、僕とて唯で本を貰うつもりは無い。 「勿論君にも利はあるよ? 僕も君同様本が好きでね、色々と集めているんだ。君が譲ってくれた分も含めて、それを好きに読んで構わない」 「む……」 僕が出した条件を聞いて、反論の声がピタリと止んだ。 ぐむむ……、と顔を顰めて唸り始めたのを見る限り、どうやら魅力は感じているが決めあぐねているらしい。 ふむ、これはもう一押しといった所か。 「紅魔館と稗田家は知っているかな?」 「はえ? 紅魔館って湖の畔の紅い屋敷で……稗田家ってのは人里の大きな家だったわよね? どっちにも沢山の本があるって聞いた事があるわ」 流石は本好きなだけあって、幻想郷屈指の蔵書量を誇るあの二箇所は御存知のようだ。 「あぁ、僕はどちらの関係者とも親しくてね。君が望むなら、本の閲覧をさせてもらえるよう頼んでみようかと思うのだが」 「ッ!?」 ピクッ、と一瞬朱鷺子の体が小さく震えた。 どうやら効果は抜群のようだ。 何しろあの二箇所は読書家にとっては聖地と言っても良い場所だ。 そこに行けるかも知れないともなれば、心の天秤が大きく傾くのも無理からぬ話である。 「ね、ねぇ……今の話……本当?」 「断言は出来ないけどね。あくまで僕は頼むだけだし」 とは言え、最近の稗田家は望む者には蔵書を公開しているし、紅魔館も無下に断ったりしないだろう。 そう伝えると、朱鷺子はほぅと安心したように息を吐いた。 そこで僕は改めて問い掛ける。 「どうかな? これで取引に応じてはくれまいだろうか?」 「……………………うん」 暫しの逡巡の末、彼女はコクンと首を縦に振った――取引成立だ。 その事に、僕も胸の内で安堵の息を吐く。 朱鷺子に比べて僕の利は小さい。 その上彼女が断っていれば大切な本を十五冊も失ったのだから、ハイリスクローリターンと言わざるを得ない。 ではどうしてそんな取引を持ち掛けたのかと言えば、一つは勿論彼女が持つ本を読みたかったから。 だがそれ以上に大きいのが、その本を彼女がどう解釈しているのか聞いてみたかったからだ。 例え同じ本であっても、読んだ人によって内容の解釈が異なるのは珍しい事ではない。 互いのそれをぶつけ合い、昇華させるという行為が僕にとってはとても楽しいものなのだ。 ……まぁ、時には意見が決定的に合わず争いになる事もあるのだが。 「……ふむ、そろそろ良い時間だな。話も纏まった事だし、折角だから夕餉でも食べていくかい?」 「良いの?」 「折角出来たお得意様だ。これぐらいのサービスはするさ」 「うん、じゃあご馳走になるわ。でも、まずかったら承知しないからね!」 「……善処しよう」 * * * ――それから早二週間。 僕と朱鷺子は稗田家を訪れる為、人里を並んで歩いていた。 最近は割と妖怪が普通に人里に出入りするようになったが、昼間からこうして出歩いているのは珍しいのだろう、周囲から幾らかの視線を感じる。 とは言え、僕にしてみれば霧雨家の修行時代やそれ以前に比べれば然程大したものでは無く、朱鷺子もこの二週間の間に幾度も里を訪れていた。 なので、今更この程度の視線を僕等が気にする筈も無いのである。 「ねぇ霖之助、阿求んとこ行く前にあそこ寄ってかない?」 「ん?」 朱鷺子が指差したのは里でも評判の茶屋で、夏真っ盛りの最近はメニューにカキ氷が追加されて老若男女問わず好評の様子だ。 それは朱鷺子も同様で、最近では里に来る度に寄っている気がする。 まぁ僕としても、炎天の下香霖堂から此処までの短くない距離を歩いて、あの店で一息吐く瞬間が堪らなく心地良かった。 そんな訳なので僕に彼女の提案を断る理由などある筈も無く、今日も今日とて茶屋の暖簾を潜る。 そして空いている席は無いかと店内を見渡していたら―― 「「「……あ」」」 僕と朱鷺子と、そして今正にカキ氷を口に運ぼうとしている阿求の目が合った。 彼女の少し溶けかかったそれは緑色に染まっており、恐らくはメロンなのだろう。 ふむ、カキ氷はイチゴが基本且つ至高だろうに……彼女とはこういう所で僕と合わないのだ(因みに朱鷺子は宇治金時派だ)。 「いや、貴方の好みはどうでも良いんですが……と言うか、香霖堂さん結構子供っぽいのが好きなんですね」 「君が今口にしているのも十分子供っぽいだろう。……あぁ、相席構わないかい?」 「私はそもそも子供だから良いんですよ。あ、ちょっと詰めますね」 阿求が奥に詰める事で空いたスペースに朱鷺子が、彼女等の対面に僕が腰掛ける。 それから特に迷う事も無く店員に注文(当然僕がイチゴで朱鷺子は宇治金時だ)をすると、改めて僕は目の前の少女に向き直った。 「珍しいね、君が屋敷から出てるなんて」 「あら、私だって何時も屋敷の奥で本を書いてる訳じゃないんですよ? 貴方と違って」 「ほぅ? 言っておくが僕はそれなりに外に出て身体を動かしているんだがね?」 「そうして唯で拾った物を高値で捌いてるんですよね? 良いですねぼろ儲けで」 「いやいや、そう上手くも行かないものでね。勝手に持っていく連中が居るのもそうだが、何より誰かさんが僕の店を酷評してくれたのでね。おかげで普通の客がめっきり来なくなった」 「誰でしょうねー? そんな酷い事する人はー?」 「…………相変わらず仲良いわね、霖之助と阿求は」 そんな実に穏やかな談笑をしているうちに、注文していたカキ氷二つが届く。 そこで一旦僕等は会話を止め、それぞれの獲物を切り崩しに掛かった。 粉々に砕かれた氷の山にスプーンを刺す。 スプーンは何の抵抗も無くイチゴシロップが掛かり赤く染まったその境目を掬い取り、それをそのまま口に運ぶ。 口を動かす度シャクシャクと小気味良い音を立てるそれは、口の中でシロップと絶妙に混ざり合い丁度良い甘さとなった。 「……うん、相変わらず此処のは美味い」 「ですよねー。特にメロンが絶品です」 「そうなの? ちょっと貰っても良い?」 「えぇ構いませんよ。その代わり宇治金時貰いますね」 「どうぞー。……んふー、本当に美味しいぃ」 「こっちも良いですねー。今度来た時は頼んで見ましょうかね?」 互いのカキ氷を交換し合うその様子は、まるで仲の良い姉妹のように映る。 出会ってまだ二週間も経ってないが、本好きという共通点もあるのだろう、二人が仲良くなるのに時間は掛からなかった。 それこそ、人間と妖怪と言う種族の違いを感じさせぬほどに。 「ん? どうしたんですか香霖堂さん?」 「霖之助も欲しいのー? はい、あーん」 僕の視線をどう勘違いしたのか、朱鷺子が自分のカキ氷をスプーンに掬い突き出してきた。 それを手をかざしてやんわりと断り……そして僕は残りのカキ氷を一気にかきこんだ。 「「あーッ!?」」 下手に貰ったりしたら、それを良い事に全部持っていかれてしまいそうだからな。 普段からどこぞの紅白や黒白の略奪を受けているので、この程度の危機感知は軽いものである。 朱鷺子と阿求の恨めしそうな視線にも、僕は勝者の笑みで返すのだった。 * * * 「……やれやれ、随分と遅くなってしまったな」 カキ氷を全て平らげてから更に四半刻、僕等は茶屋に居座り続け、稗田の屋敷に辿り着く頃にはすっかり空は紅く染まっていた。 「まぁまぁ、美味しいカキ氷が食べれたんだから良いじゃないですか」 「君はな。同じ里に家がある君は良いだろうが、僕等はそういう訳には行かないんだぞ?」 カキ氷だけ食べて帰るのもあれだから、こうして阿求についてきた訳だが……。 元々そのつもりだったとは言え、これでは碌に本を読む時間も無さそうだ。 「まぁまぁ、それなら家に泊まっていけば良いじゃないですか。それなら本を読む時間もゆっくり取れますよ?」 「本当ッ!?」 ふむ、確かにそれなら帰る時間を気にせず此処の本を読む事が出来るな……。 朱鷺子も彼女の提案に嬉しそうに瞳を輝かせている事だし……今回はその好意に甘えても良いだろう。 その旨を伝えると、阿求もにこりと頬を綻ばせた。 「何読んでるのー霖之助ぇ?」 そんな声と共に、背中に重みが掛かったのはじき日が変わろうかと言う頃合の事だった。 丁度良い所を……幾ら朱鷺子が軽いとは言え、集中を阻害されたのは変わらない。 なので少し眦を吊り上げつつ振り向いてみるが、彼女はまるで気にした様子も無く僕の手元の本を覗き込もうと躍起になっていた。 やれやれ、と息を吐き、仕方なく僕は彼女に説明をしてやる。 「これは先代の……稗田阿弥が書いた幻想郷縁起だね」 「あや? 時々来る天狗の事?」 「いや、それとは違うよ。まぁ、阿求のご先祖様……みたいなものかな」 厳密には違うのだが、それを朱鷺子に言った所で仕方あるまい。 本当は説明しても良いのだが、今の彼女の興味は本の中身に注がれているようなので、聞き流す可能性が大だからな。 聴く者のいない講演ほど虚しいものは無いだろう。 「ふぅん……。で、どんな事が書いてあるの?」 「阿求が書いた今代の奴は読んだ事はあるな?」 「……そう言えば、前に霖之助が載ってる本を見せてもらった気がする」 ……言われて思い出した。 あれには何故か僕も載っていたんだったな――しかも英雄伝の項に。 「あれと基本は同じだ。危険だったり名が知れてる妖怪について纏めを中心とした、幻想郷の総合資料集だ」 とは言え、先代の時代は幻想郷の内外両方で妖怪の勢力が弱まり、ある意味今よりも危険では無かったのだが。 まぁ、この時期には丁度博麗大結界が提案、現在の幻想郷が創り出されたので、幻想郷の歴史を学ぶ上では非常に重要な資料である事は間違いない。 ……それにしても、昔の幻想郷縁起は文章が硬くて事務的だ(ついでに絵も正直上手くない)。 先代が真面目だったのか、それとも今代が砕けてるだけか……後者だろうな、間違い無い。 「へぇー。……それじゃあ、私も異変とか起こせば此処に載るのかな?」 「今の君じゃ即座に霊夢と魔理沙辺りに叩き潰されて終わりだよ。……まぁ、次の幻想郷縁起まで百年以上ある。ゆっくりやれば良いさ」 「――二人して悪巧みですか?」 「わひゃッ!?」 「うぐぅ!?」 気配も感じさせずに突然響いた阿求の声に、朱鷺子が驚いて僕にギュッとしがみついてきた。 しかし彼女の腕が回っているのは僕の首筋で、妖怪の腕力でそこを締め付けられると……い、息が……。 「……あの、香霖堂さん顔色がやばげになってますよ……?」 「わ、り、霖之助ーッ!?」 慌てて朱鷺子が腕を放してくれるも時既に遅し。 僕の意識は肉体と言う檻から解き放たれ、今正に彼岸の彼方に―― …… ………… …………………… 「――死ぬかと思った」 と言うか、確実に一回死んでたな。 そんな事を思いながらムクリと身体を起こすと、途端腹部に強烈な衝撃が走り、再び僕は仰向けに倒れこんだ。 何事かと思えば、そこには僕をあの世一歩手前まで導いてくれた元凶が居た――おのれ、上手く始末できなかったから止めを刺そうというのか。 「いや、朱鷺子ちゃんがそんな事する訳無いじゃないですか。……まだ寝惚けてるんですか?」 「解ってる、冗談だよ。……とりあえず、気にしてないから僕の上から退いてくれないか?」 「あ、ごめん……大丈夫?」 「特に問題は無いよ」 ポンポン、と軽く頭を叩いてやると、朱鷺子は安堵の息を吐いて僕から身体を離した。 「それにしても良く無事でしたね。どうやってこっちに戻ってきたんですか?」 「いや、三途の河を渡ろうとした直前で死神が『今日はもう勤務時間終わってるから帰ってくれないかい?』って……」 「……良かったですね。さぼり魔な死神で」 まったくだ。 ……と言うか、勤務時間あったのか死神にも。 「でも、香霖堂さんも結構しぶといですよね。あれ、普通の人間だったら確実に逝ってましたよ?」 「まぁ、僕も半分は妖怪だしね。誰かさんが『体は強くない』なんて言ってくれたから、僕を貧弱だと勘違いする輩もいるけど」 「誰でしょうねー? そんな酷い事する人はー?」 「それと一字一句発音も違わない台詞を昼間にも聞いた気がするんだが?」 「気の所為ですよ」 やれやれ、相変わらず口の良く回る娘だ。 転生する事で千年近く生きているのは伊達では無い、と言う事なのだろう。 「まぁ、こうして僕等妖に連なる者が気兼ね無く里に出入りできるようになったのは、君のおかげでもあるのだけれどね」 「? そーなの?」 キョトンと僕の顔を見上げてくる朱鷺子に、あぁと頷いて返す。 もし昔のように人間と妖怪の関係が殺伐としていたら、僕はまだしも朱鷺子は里に入る事すら出来なかっただろう。 僕も霧雨道具店での修行時代は結構苦労したからな。 「いえいえ、私は唯本を書いていただけですよ。それに、里が妖怪に寛容になったのは慧音さんが寺小屋をやってるからです」 「だが、その慧音に教材を提供しているのは君だろう? なら、君も妖怪への意識改革に一役買っている事には変わるまい」 「ふぅん。……何か良く解んないけど、阿求って凄いのね」 否定の言葉を口にした阿求ではあったものの、朱鷺子の浮かべる素直な尊敬の感情に何処か困ったような、それでいてくすぐったそうな笑みを浮かべる。 やれやれ、そこまで恥ずかしがる必要も無いだろうに。 精神を核とする妖怪は人間から認識される事でその存在を成す。 認識すると言う事は何らかの感情を抱くと言う事であり、妖怪が人間を襲い喰らうのもその為だ。 恐怖≠ニいう人間が持つ中でも最も強烈な感情を植えつける事により、自己の存在を確立しているのである。 しかし阿求が幻想郷縁起で妖怪について書き、それ等稗田の資料を教材として使う慧音によって里の人間達に伝えられる事でその在り様も少しずつ変わっていく。 阿求の本が以前の物よりも砕かれて書かれている事もあって、読んだ者は妖怪に対して恐怖以外の感情も抱くだろう。 そうなれば例え妖怪が恐怖の象徴で無くなったとしても、その存在を保つ事ができる。 「今回の幻想郷縁起の執筆の際に、妖怪側からのアピールがあったのは妖怪なりの処世術だった……と言う事ですか?」 「その可能性は十分にあると思うよ。妖怪にとって知られる≠ニは存在する≠ニ同意だからね」 まぁ、そんな打算などまるで無さそうな連中の方が多く載っているのだが。 「要するに、阿求は私達妖怪の命運を握っているのね? うわー……思ってた以上に凄かったんだね、阿求って」 「まぁそんな所だろうね。朱鷺子も今から媚を売っておくと良い。次の幻想郷縁起でより詳しく書いてくれるかも知れんぞ」 「うん、解った!」 「こらこら、何適当な事吹き込んでんですか。朱鷺子ちゃんも本気にしないでッ!?」 途端にじゃれ付き始める朱鷺子に、阿求も慌てて狭い書庫の中を逃げ惑い始めた。 真夜中に突然勃発したその鬼ごっこは、騒がしさに目を覚ました使用人に説教喰らうまで続くのだった。 「……で、何で僕まで」 「元はと言えば、香霖堂さんが騒ぎの原因でしょうが」 「そうよ、霖之助だけ逃げようたってそうは行かないわよ!」 「三人ともちゃんと聴いてるんですかッ!?」 「「「すいません」」」 2009/3/17執筆 |