【月より来たりて】
「――はい、今日の診察は終了よ。今回も特に問題はなかったわ」 「それは良かった」 いつもの事とはいえこの瞬間が一番緊張するな、と僕は小さく息を零しつつ、傍らに畳んでおいた上着を手に取る。 今僕は、永遠亭にて八意女史の診察を受けていた。 と言っても、何処か具合が悪いという訳ではない。 むしろ人間の病気にも妖怪の病気にも強い僕ではあるが、しかしあくまでなり難い≠セけ。 態々迷いの竹林を抜けて永遠亭まで来るのは面倒ではあったが、 しかし病を患ってしまった時の方がもっと面倒なので、こうして定期的に診てもらっているのだ。 向こうも僕の身体に興味があるらしく、その分タダにしてくれるしな。 ギブアンドテイク。 「やはり……と言うべきかしら? 貴方の身体の構造は妖怪に近いわね。そして精神は人間寄り」 「人間は身体の病に、妖怪は心の病に弱いからな。僕がその両方に強いのは、そのおかげなんだろう」 コツコツ、と僕等の声以外には足音だけが響く永遠亭の廊下を、僕と八意女史は進む。 なんでも今日は彼女に客が来ている――薬師としてではなく八意永琳個人として――らしく、 今日の仕事は僕で最後だったのだとか。 「しかし君個人に客とはね……」 「あら、私に友達がいたら可笑しい?」 「いや、そういう訳じゃないが」 彼女を含め、永遠亭はつい数年前までこの幻想郷の中にあって尚その身を隠してきた。 しかし今回彼女を訪ねてくるのは、なんでも古くからの知人らしい。 当然ながら、身を隠していた当時彼女達の人間(?)関係は永遠亭内で完結していただろうし、 姿を見せるようになってから知り合った者を古くから≠ニは言わないだろう。 どうにも、可笑しな話だった。 「ふふ、貴方一つ見落としている事があるわよ。……私が昔、月にいたという事をね」 「それは解っているが、いやしかし……」 彼女の口振りから察するに、やはり彼女の知人とは月の民の事なのだろうか? 「如何に月の民とはいえ、そう簡単に幻想郷に来れるものなのかい?」 「当然ですわ」 そう答えたのは、僕が視線を向けていた薬師ではなく……いつの間にか目の前に立っていた、二人の女性の片方であった。 「月の都とこの幻想郷は、非常に近しい存在。 となればそこを囲む結界も、その原理は同じという事になるのだから、私の力をもってすれば通れない筈がないのです」 そう語るは、先程僕の言葉に答えた方――蒼を基調とした服に身を包み、 緩やかなウェーブの掛かった髪を腰下辺りまで伸ばした女性だ。 一見幼くも見える顔立ちだが、そこに浮かぶ笑みは何処ぞの妖怪少女にも似た、底の見えぬ不気味さを僅かに含んでいた。 「とはいえ、所詮は地上の民によるもの。原理は同じでもお姉様の結界の方がずっと強力ですけどね」 続いて口を開いたのは二人組のもう片方。 どうやら二人は姉妹らしいが、なるほど確かに見てみれば顔立ちが良く似ている。 彼女の方が眦が少々鋭く真面目な印象を与えるが、頭頂部で一纏めにしている髪を解けば瓜二つなのだろう。 「あら、それはどうかしらね? 互いの結界は原理こそ確かに同じだけど、用途はまるっきり正反対よ。 月の都の結界は穢れを排除する防衛用なのに対して、此方は幻想となったものを招き寄せる。 例えるなら、ブラックホールとホワイトホールみたいなものね」 ブラックホールとホワイトホール――その名は、僕も何度か外の本で見た事があった。 片や全てを呑み込み、片やあらゆるものを吐き出す。 「幻想郷は全てを受け入れる、と言う事か……」 「アレの口癖ね。……まぁ、そういう事よ」 まるで『良く出来ました』と言いたげな笑みを一瞬僕に向けた八意女史は、しかしすぐに姉妹の方へと振り向き、 「いつまでも此処で立ち話もあれだし、ゆっくり出来るところに行きましょうか?」 * * * 「はい、お茶です。店主さんもゆっくりしていってくださいね?」 「……あぁ」 僕を最後にお茶を配り終わった鈴仙は、ぺこりと小さく礼をして部屋を後にする。 それをぼんやりと眺めいていた僕だが、襖が閉じられたところで視線を正面に向けた。 卓袱台を挟んで目の前には先程の姉妹――姉が綿月豊姫、妹が依姫というらしい――が、 僕同様鈴仙から受け取ったお茶を啜っていた。 隣には、やはりお茶を啜る八意女史の姿が。 はてさて、何故僕はこんな状況の中にいるのだろうか……? 考えるまでもない、隣の奴の仕業だ。 廊下での立ち話を終えた後、僕は適当に挨拶してそのまま帰るつもりだった。 当然だ、綿月姉妹の目的は八意女史であり、僕など偶々その場にいたから会話に加わったに過ぎない。 当然、場所を変えるという言葉に付き合う必要もつもりもなかった。 ……にも関わらず、 『あら、折角だから貴方もどうかしら?』 何故か八意女史は僕の腕をがっちりとホールドし、目には『面白い玩具を見つけた』と言わんばかりの嫌な光を宿していた。 目の前であからさまに殺気立った視線を僕にはなっている綿月姉妹を見て、 小さく笑みを浮かべていたから、僕の感じた事にまず間違いはないだろう。 閑話休題。 「――師匠、ちょっと良いですか?」 僕がこれまでの経緯を振り返っていたら、先程お茶を配って帰った鈴仙が再びやってきた。 部屋の出入り口で交わされた二人の会話を聞き取るに、どうやら急患が出たようだ。 「三人ともごめんなさいね。少し待ってて頂戴」 となれば、八意女史も此処でのんびりしている訳にはいかないだろう。 先程脱いだばかりの白衣を再び羽織り、鈴仙と共に部屋を後にする。 途端、それまでの和やかな雰囲気(僕除く)は取り除かれ、何とも言えない沈黙が部屋の中に漂う。 当然だ、僕はあくまで八意女史に拉致ら……もとい誘われて此処にいるのであり、綿月姉妹との接点など皆無なのだ。 「……森近霖之助さん、と言いましたか?」 実に嫌な沈黙を最初に破ったのは、綿月姉妹の妹の方――依姫であった。 生来のものなのか、姉よりも幾分か鋭いその瞳を更に鋭く釣り上がらせ、彼女は僕へとまっすぐに視線を向けてくる。 「……あぁ、魔法の森の近くで香霖堂という店を営んでいる。 他では手に入らない物ばかりだから、何か要り様の時は是非訪れてくれたまえ」 何故だろうか、彼女の視線に殺気が混じっているように感じられるのは。 しかも、傍らには彼女の獲物らしい刀が置かれており、冗談に思えないのがまた性質が悪い。 太刀だけに。 「…………何やら、今物凄く失礼な事を考えていませんか?」 「い、いやそんな事はないさ」 ……まぁ、こんな状況にあってくだらない事を考えたり、 自分の店を宣伝していたりする辺り僕もそれなりに神経が太いのだろう。 見れば、依姫の隣に座る豊姫は扇子を口に当ててクスクスと笑みを零していた。 「……兎に角、話を戻しますが……貴方は八意様とはどういったご関係で?」 姉が笑っている事に釣られたのだろう。 幾分か毒気の抜けた、少し困ったような表情で依姫はそう尋ねてきた。 そして僕自身も、彼女の質問に少し拍子抜けしていたりもする。 「なんだ、そんな事か……。僕はあくまで診察に訪れていただけで、君達が危惧するような関係ではないよ」 聞いた話では、彼女達は八意女史がまだ月にいた頃の教え子らしい。 こうして月から幻想郷まで彼女を訪ねてくる辺り、尊敬もしていたのだろう。 そんな彼女達にしてみれば、敬愛する師に纏わりつく悪い蟲(例えだが)が気になって仕方ないのも、 まぁ解らない話ではない。 「あらあら……その割には、八意様と随分親しげでしたよね?」 そう割って入ってきたのは、それまで我関せずという感じの態度だった豊姫だ。 やはり彼女にとっても気になる話題ではあったのだろう。 目が笑ってない。 「ただ診察に来ただけ、と言う割には八意様も嬉しそうに貴方をこの場へと誘っていましたし、 これでなにもないと思う方がおかしいですよ?」 「……まぁ、確かに僕と彼女は友人……と言うほどではないが、冗談を交わせる程度には親交があるからね」 「そうなのですか?」 未だ懐疑的な視線を向けてくる豊姫に向けて、僕はすっかり温くなってしまったお茶を啜りながら、小さく頷いて見せる。 「さっきも少し話したが……僕の店は色々と取り扱っていてね。 その中には医療関係の品も含まれているから、時折八意女史も訪れるんだよ」 まぁ、普段は弟子の鈴仙がお使いに来る方が圧倒的に多いのだが。 「それでまぁ、その際に軽く話をする事もあってね」 軽く、とは言ったものの、言葉を交わすうちについ夢中になってしまい気がつけば夜が明けていた、 なんて事もあったりしたのだが。 ……あの時の、人型ロボットと非人間(動物)型ロボットのどちらが実戦においてより有用か、 という外の世界の文化考察を発端に行われた議論は、実に愉しいものだった。 八意女史曰く『人の形即ち完全な形』 ――妖怪が好んで人間の姿を取る理由の一つもこれへの本能的な憧れかららしい――だとの事で、 それ故にロボットも人型でなければならないらしい。 要約すればロマンだ。 しかし僕に言わせればそれはナンセンスだ。 人の形が完全な形、という彼女の意見はまぁ理解出来るが、しかしだからと言って『人間=完全な生命』な訳ではない。 この世の生物はそれぞれがそれぞれの特徴を持ち合わせており、 そこに人の持つ技術が合わさる事で最強に見えるのは至極当然の事なのだ。 要するに動物型ロボットはロマンなのである。 ――等々、僕と八意女史は寝食を忘れる勢いで(忘れても別に問題はないけど)互いの主義主張をぶつけ合い、 最終的に『じゃあ直接戦り合った方が早い』という結論に達した僕らは、 偶然僕が仕入れていた様々なロボット同士が戦うらしい外の世界のゲームを、 何とか起動させようと四苦八苦しているうちに疲れ果ててしまい、結局どうでも良くなってしまったのだった。 うん、本当にどうでも良いな。 今この場においては。 「――だからまぁ、彼女とは友人……と言うほどではないが、それなりに親しい知人ではあるね」 「……そうですか。まぁ、そういう事にしておきましょう」 どうやら、一応は納得してくれたらしい。 まぁ、依姫は未だ懐疑的な視線を向けてきているが。 一方の豊姫はいつの間にかお代わりしていたらしい湯気の立つお茶を啜りながら、にこにこと楽しそうに笑っていた。 なんでも彼女はあの八雲紫に近い能力を持っているらしく、 その所為かは知らないがその笑みの奥に何かがあるような気がして、どうにもやり難い。 堅物とも取れるくらい真面目な依姫の方が、ある意味単純で相手にしやすいくらいだ。 「……お姉様、余りお茶ばかり飲んでたら水っ腹になりますよ?」 「あら大丈夫よ。ちゃんとお茶菓子も食べてるから」 いや、そういう問題でもないだろう。 本当に、良く解らない相手であった。 * * * 「――やれやれ、今日はえらい目に遭った……」 妙に居心地の悪い雰囲気に長時間中てられた所為か、少し硬くなった首の付け根をコキコキと鳴らしながら、 僕は永遠亭の前に出ていた。 見れば、覆い茂る竹の隙間から見える空は、紅く染まっており直に夜が訪れるだろう。 唯でさえ迷いの≠ニ呼ばれるこの竹林。 暗くなる前に抜けなければ、色々と面倒だ。 「あら、なんなら泊っていけば良いのに。部屋なら幾らでも空いてるわよ?」 「病気でもないのに入院しろって?」 クスクスと、本気なのか冗談なのか今一解り難い笑みを浮かべる永琳に、僕はやれやれと肩を竦める。 「君も存外暇人だね。今日も、彼女等をからかう為に僕を態々引き止めたのだろう?」 或いは、僕で遊ぶ為だったのか……どちらにせよ、迷惑な話である。 「ふふ、そんな単純な理由じゃあないわよ。……まぁ、だからと言って深い理由がある訳でもなかったのだけど」 「と言うと?」 「あの娘達に、地上の事を教えてあげようかな、って。それにはこの地上の民と交流を持たせるのが一番でしょう?」 「……それで偶々、その場に居合わせた僕を生贄にした、と言う訳か」 彼女の言う事は解らないでもないし、僕もあの二人から月の都に関する様々な話を聞く事が出来たが…… しかし、僕にとって傍迷惑な事に違いはなかった。 「……あら、そうは言うけれど、貴方にとっても悪い事ばかりじゃないわよ? 現にあの二人は以前よりも地上に興味を抱いているし、もしかしたらそのうち貴方の店にも訪れるかもしれないわね」 「だと良いがね」 あえて期待を込めず、僕は八意女史に背を向けながらそう返した。 ……いい加減出発しないと、暗くなる前に竹林を抜けられそうにないな。 「……それじゃあ、僕はそろそろお暇させてもらうよ」 「えぇ、また何時でもいらっしゃいな」 「余り此処の世話にはなりたくないけどね」 最後に、そんな冗談を交わして、僕は永遠亭を後にした。 紅く染まる空の中、うっすらとその存在を主張し始めた月へと、思いを馳せながら―― 2009/11/11執筆 |