【『酒』】










「お酒でも一緒にどうかしら?」

 そんな言葉と共に、比那名居天子がこの香霖堂を訪れたのは、そろそろ日も変わろうかという頃の事であった。その手には一升瓶が一つ。見た所未開封のようだが、しかし恐らくは別の酒を既に飲んでいるのだろう、その顔は仄かに朱に染まっていた。

「はぁ……時間を考えてくれよ」

「仕方ないじゃない。他の知り合いは皆神社だし」

 ならば一人で呑めば良いだろう、とも思ったがそれは言わない事にした。多分、言った所で無駄だからだ。

「……どうせ、出て行けと言った所で聞かないのだろう?」

「あら、良く解ってるじゃない」

 溜息と共に零れた僕の言葉に、天子は如何にも愉しげな笑みで返し、ズカズカと店の奥へと進んで行く。やれやれ……このまま放っておいても一人で呑んでいそうな気がするが、しかしまぁ……先程ちらりと見た彼女の酒が、中々に美味そうだったし……少しくらいなら付き合うのも悪くないかな、うん。




「急だったからつまみは余りないよ?」

「ん、まぁそれくらいは我慢するわよ。押しかけたのはこっちだしね」

 思いのほか殊勝な態度で、彼女は僕からつまみを持った皿を受け取る。そして僕も、皿を挟んで彼女の反対側に腰掛けた。僕らが今いるのは、店の中庭に面した縁側だ。此処からだと、丁度月を眺めるのに適しているのだ。

「んー、月が綺麗ねェ」

「あぁ、今日はことのほか輝いて見えるね」

 互いのお猪口に酒を注ぎ終えた僕らは、それを静かに傾けながら天を仰ぎ見る。その視線の先には、月と、そして数多の星が爛々と輝いていた。

「ん、美味いなこれは……それはさておき、何でまた僕の所に?」

「そう? 適当にかっぱらってきたんだけど、辺りだったみたいね。……後、それはさっき言ったでしょう? 此処くらいしかなかったって?」

 いやそうじゃなくて、と僕は質問を訂正する。

「今日は神社で宴会だったんだろう? そっちにいれば良かったんじゃないのか?」

「む……」

 口ぶりから察するに、彼女は最初神社の方にいたのだろう。しかし何故かそこを抜けだして僕の所まで来た訳だ。他に行く場所がなかった、というのは恐らく本当だろうが。

「まぁ確かにそれはそうだけど……でも、何となく気分的に、ね。今日は静かに呑みたい気分だったのよ」

「……あぁ」

 なるほど、と僕は即座に理解した。確かに、あの宴会の場にいて静かに呑む事など、まず不可能であろう。何しろ、酒好きで知られる鬼や天狗も多数参加しているのだ。気づいたら潰されていた、なんてのもきっと珍しくはないだろう。……というか、僕は過去にそれを経験している。

「酒は微酔に呑め、ってね。前萃香と弾幕ごっこした際にも言ってやったんだけど、あいつったら全然聞かなくてねェ……」

 そりゃ鬼に言っても無駄だろうに……などと思いつつ、僕はまたお猪口を口へと運ぶ。酒が胃の中へと流れ込み、身体が仄かに熱を持つ。うん、美味い。

「しかし、これは本当に良い酒だな。美味い酒に綺麗な月……うん、悪くない」

「そうねェ……わいわい騒ぎながらの酒も悪くはないけど、やっぱり私はこうして静かに呑む方が好きだわ」

 それは僕もだ、と返すと、彼女は嬉しそうに口元を緩ませる。それに釣られて、僕もまた、笑みが浮かぶのを感じた。

「あら、気が合うわねェ……また偶にでも、こうしてお酒を呑みましょうか?」

「あぁ……それも悪くない」

 そして僕はお猪口に残っていた酒を、一気に呷る。そうして見上げた視線の先で、月はやはり美しく輝いていた。……あぁ、今日は良い夜だ。









2010/10/23:執筆
2010/10/24:掲載






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